魔界の住民、川端康成

梅原 猛 哲学者
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『伊豆の踊子』『雪国』『古都』などの名作を残した近現代日本文学を代表する作家、川端康成(かわばたやすなり)(1899―1972)は、昭和43(1968)年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。親交のあった哲学者の梅原猛(うめはらたけし)氏が綴る。

 もしも私が中学3年生のときに川端康成の小説を読まなかったならば、今の私とはまったく別の人間になっていたであろう。そのころ私はまったくの数学少年であり、中学の成績は数学は代数、幾何ともに100点に近く、英語は90点、国語は80点、作文は70点であった。それで教師も友人も、私は旧制高校の理科に進み、数学者か技術者になるにちがいないと思っていた。

 しかし私は思春期を迎えて、子供のときからずっと私に隠されてきた私の出生の秘密に気づき、一人心を痛めていた。そのときたまたま私は川端康成の『十六歳の日記』を読んで、心に大きな衝撃を覚えた。

川端康成 ©文藝春秋

『十六歳の日記』は、孤児であった川端康成が最後の肉親である祖父の死の前の姿を描いた作品である。肉親である祖父を通じて人間を見つめる作者の目が恐ろしいほど冴えていた。私はそこに深く人間を見つめた私と同年の少年がいることに驚嘆した。私もこのような深く人間を見る目をもちたいと思った。そして川端康成の小説をはじめとする日本の近代小説を耽(ふけ)り読んだ。こうして私はまったくの数学少年からまったくの文学少年に変身した。

 しかし旧制高校に入ってからは、私は文学より哲学に夢中になり、大学は京都大学の哲学科を選んだ。それは一つには、もともと作文が苦手であった私には小説の創作などとてもできないが、哲学という人生を論理的に解明する学問においては決して人に負けないという処世の知恵にもよるものであった。京都大学哲学科を卒業後、私の興味は西洋哲学から日本の宗教や芸術に及び、多くの著書を書いたが、川端康成のことは忘れていた。

 ところが突然知人から私に電話があり、「川端先生が今京都に来ておられ、君に会いたいと言われるから、会いにいかないか」と言う。驚いて私は都ホテルにおられた川端氏を訪ねると、氏は私に「君の『地獄の思想』を愛読している」と言われた。私も少年時代に氏の小説を愛読した話をしたが、川端氏はさも当然のことであるかのように聞いておられた。私はどこにも少年の日に川端文学を耽読したことを語らなかったのに、あるいは氏の鋭い嗅覚は私の文章に川端文学の影響をかぎつけておられたのであろうか。氏はホテルで書を書いておられたらしく、私の家から東山が見えるかと聞かれ、見えると答えると、「東山熟友の如し」という頼山陽(らいさんよう)の文句を記した雄渾(ゆうこん)な書額をくださった。

 それから数年後であったであろうか。川端氏から連絡があり、桑原武夫先生とともに会いたいので、都ホテルに来てほしいとのことであった。行ってみると、日本ペンクラブがジャパノロジストの世界大会を開催するので、私に思想部会の責任者をやってほしいという依頼であった。桑原先生にも勧められ、私はその大役を引き受けた。ジャパノロジストの大会は川端氏の努力により実に華々しく開催され、大成功を収めた。そこで外国の日本文化研究者から、日本にも外国人の利用できる研究センターをつくってほしいという要望があり、それが後に私が初代所長を務めた国際日本文化研究センターの創設になった。また今、私ははからずもそのとき入会した日本ペンクラブの会長を務めている。

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source : 文藝春秋 2002年2月号

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