――はじめて小説を書いたり、作家になりたいと思ったのはいつ頃だったのでしょう?
中島 作家になりたいと思ったわけではないんですが、中学生の時に最初の長篇小説を国語のノートに書き始めたんです。そうしたら、まだ頭のはっきりしていた父が、こんなことをしてはいけないって言って、ものすごい雷を落としたんですよ。
私、中学の時、勉強のできない子だったんです。3つ上の姉は優等生だったんです。父は田舎の秀才型の人だったので、父にとっては勉強がすごく大事なことだったんです。それなのに私は国語のノートにわけのわからないお話を書いていて、そして成績が悪い。成績が悪いとか、テストの点数が低いというのは、自分の娘としてありえないことだったらしくて、怒った父が「こんなことしているからだ」「こういうことは絶対にしてはならない」と言って、発禁処分じゃなくて執筆停止処分になったというか(笑)。中島家では大弾圧事件として今も語り継がれています。
――その後、地下活動はしなかったんですか。
中島 しました(笑)。それ以降は地下に潜っていったんですよね。ノートも自分で買ってきて、とにかく隠して、見えないところに置いていました。それで高校2年生くらいの時に、人生2回目の長篇小説を書きはじめたんです。でもうっかり机の上に広げたままトイレに行ってしまったら、姉が入ってきてそれを読んじゃったという事件があって。部屋に戻ってきたら姉が読んでいるからギョッとしたんですけれど、ケタケタ笑って「面白いからもっと書いて」って言うんです。その時から笑わせるのが好きだったんですね。姉もおかしいものが好きだったので、ちょっと書いては姉に見せるようになりました。「もうちょっと笑えるように書いて」と言われて注文に応じて書いているうちに、どうしても笑わせたいという、作家魂が育ったようです。
――どんな話を書いていたのですか。
中島 高校生の時に書いていたのは、高校生が出てくる青春小説みたいなものでした。中学生の時に書いていたのは、『トーマの心臓』みたいな、向こうの人が出てくるような話です。それは笑える話だったかどうかは憶えていないんです、執筆停止処分となりましたし(笑)。あれが自分にとってどうだったのかはいまだに分からないですよね。あそこでもっと真っ直ぐ伸びるはずの芽が折れてしまったのか、それともそこで踏まれたがために、雑草として強く甦ったのかはよく分からない。
――大学生になってからも書いていたのですか。
中島 長篇は大学を卒業する頃に書き終わったのかな。300枚くらいでした。書くことはすごく好きだし、それを読んだ人が笑ってくれるとすごく嬉しいんですけれど、どこかに応募するとか、編集者に厳しいことを言われるとかいうことは嫌でした。内弁慶で、外に出せなかったんです。
この間大学時代の友達とメールをしていたら「遊びに行くとよく読ませてくれたよね。笑ったよね」みたいなことが書かれてあって、え、私そんなことをしていたんだと思って。でも自分では人に見せずにこっそり書いていたつもりで、それもあって世に出るまでは時間がかかりました。
――ええ、かかりました。大学卒業後は日本語学校に勤めたんですよね。
中島 そうです。日本語学校に1年間くらい勤めて、辞めてフリーのライターになって、1年くらいして主婦の友社の社員になったのかな。『Ray』とか『Cawaii!』とかの編集をやっていました。
――それで、小説を書く暇もなくなってしまったんですか。
中島 それもありますけど、ちょっと怖かったんですよね。小説は読むのも書くのも好きだったし、自分の書いたものを人に読ませたい願望も強かった。でも人生経験のない自分がぽっと世に出ても、潰れてしまうんじゃないかと思っていたんです。「作家です」って言って世の中に出ていくのって怖いことだと感じていました。会社員だったら会社の名刺が守ってくれるけれど、作家は一人なので。
10代や20代でデビューして頑張っている人たちは強いなと思います。作家になるには、小説を書くこと以外に、何かタフさみたいなものがないとやっていけないような気がします。いまでもね。
私にとっては、雑誌の編集者をやったり、フリーのライターをやったりとか、外国に行ったりしている時間というのは、必要だった気がしますね。小説家として、ネタを拾うというような意味でもすごく役に立っているし。それと、タフになるという意味で。