松本人志の「シュール」で多くの人が笑う理由
――「関係性の笑い」ですか。
小松 「トカゲのおっさん」も、関係性をどう保ち続けるかっていう笑いなんですけど、これは台本で書けるものではなくて、空気作りながら、その次、誰がどの役割で何をやるっていうことを、それぞれがアドリブでやっていくってコントなんです。この種のコントは作家には書くことができない。演じる人間しか作れないコントなんですよね。非常に身体的なもの。
松本さんは「シュール」ってよく言われますよね。でも多くの人が理解して笑ってしまうのはなぜか。例えば『ごっつええ感じ』で、子どもがキャッチボールをしていて、ボールが草むらに入っちゃって、入っていくと腐った馬が倒れてるっていうコントがあったんです。筋だけ聞くと「なんじゃそりゃ」って思いますけど、でも、草むらに分け入って動物の死骸を見つけてしまうかもしれない不安って、結構多くの人が共有できる感覚だと思うんですよ。
――子どもの頃の記憶にありそうな世界ですよね。
小松 そう、誰もが持っている深層心理に近いものがありますよね。笑いっていうのはコミュニケーションで、見ている人に球を投げてそれが通じ合う瞬間に笑いが生まれる。そこの意表の突き方というか、同意するポイントのえげつなさ。松本さんの発想というのは、そこが常人とは違うんです。その着想の感覚っていうのが、あの人の凄みを感じるところですかね。
松本さんは出てないですけど、松本さんのアイデアをベースに作った「ポチ」っていうコントがあるんです。引っ越しで置き去りにされた犬が飼い主のところまで三千里を訪ねてきて、「また飼ってくれ」って言いに来るんだけど、新築の家に汚い犬が来たから、遠回しに嫌がる。で、お互い本音は別として思ってもないことをずっと会話し続ける。それが見てる側にも分かって笑えてくる。そういう関係性の見つけ出し方。視聴者との合意の作り方。このランデヴーポイントがすごく深いところにある。ことコントに関しては、そういう発想のすごさですね。多分ご本人としてはそんな理屈っぽい作り方はしてないと思いますけど、分析するとそういうことかなと思いますね。
「関係性の笑い」がオチの映像を変えた
――小松さんはそれを演出の立場で具現化する。
小松 そうですね。ディレクターとして、それをビジュアライズするにはどうすればいいのかを考える。「関係性の笑い」に変わっていったら、映像も変わっていかざるを得ないんです。
――どういうふうに映像が変わるんですか?
小松 オチのところで「だっふんだ」、つまり、ヘンな顔のアップ、では終われないんですよ。それは主観的な笑いのオチの見せ方だから。『ごっつええ感じ』では全体の状況を俯瞰した引きの画で終わるコントが多いんです。それはまさに「関係性」を俯瞰しているということなんですけど、「この愚かしい状況はずっと続くのである」ということの表現なんです。映像の基本ですけど、映像が上からになればなるほど客観的になるんですね。下から撮ると主観的になる。つまり神様的な俯瞰目線で見ると、この愚かしい人たちの行動がずっと続いていくっていうふうに見える。そうした終わり方を『ごっつええ感じ』ではやっていたんです。これも多分、最初は松本さんが言ったんじゃないかな。僕の持ち芸みたいになっちゃってて恐縮なんですけれども。