会社なり学校なりのコードに合わせてしまっている。習慣的に、または中毒的に、「こういうもんだ」と、ある特殊なしゃべり方や動きをしてしまう。そういう状態は、ある環境において、いかにもその環境の人らしく「ノっている」ということである。
環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、本書では、ひとことで「ノリ」と表すことにしましょう。
ノリとは、環境のコードにノってしまっていることである。
流れるように「コード的に行為できる」のが、「ノリがいい」わけです。逆に、コードにそぐわない行為を「やらかして」しまうのは、「ノリが悪い」ということである――ならば、周りから「浮く」ことになります。さらには、異分子として排除されることもありうる……。
ノリは、残酷なことに、「ノリが悪いと見なされることの排除」と表裏一体です。
本書では、ノリという言い方をまず、環境への「適応」、「順応」という意味で使います。しかし、「ノリがいい人」と言うと、周りに合わせているというより、一人で妙に「高いテンション」になっているという意味のこともあるでしょう。その場合には、おそらく何か過剰なものが感じとられている。ほとんど一人で勝手に楽しんでいるような、周りを置いてきぼりにしているようなテンション――本書は後に、そのようなノリ、「脱共同的」で「自己目的的」なノリを問題とすることになります。しかしまずは、ノリという言い方は、そうした意味では使わないことにさせてください。
環境が変われば、コードが変わるので、ノリが変わる。
会社のノリと、中学時代の仲間で飲み会をするときのノリは違いますね。同じ会社のなかでも、違う部署には、違うノリがあったりする。
私たちは、環境によって別の顔を見せる――これは、「キャラを使い分ける」と言われたりしますが、「使う」というより、キャラが「変わる」の方がふさわしいでしょう。外から影響されていない「裸の自分」なんて、あるでしょうか? 私たちはつねに、他者との関係で「そういうノリの人」なのであって、他者から自由な状態なんてあるでしょうか?
千葉雅也(ちば・まさや)
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。哲学/表象文化論を専攻。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。現在は、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書に『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生変化の哲学』、『別のしかたで――ツイッター哲学』、訳書にカンタン・メイヤスー『有限性の後で――偶然性の必然性についての試論』(共訳)がある。