白井義男が日本人初の世界フライ級王座に就くのは一九五二(昭和二十七)年のこと。以降十年、ファイティング原田が登場するまで、世界という意味では空白が続くが、東洋一を目指して日比が競った日々があった。本書は、この時代を担ったボクサー、国際プロモーター、興行師、政治家、事業家……などを登場させつつ、もう一つの熱いボクシングデイズを描き出している。
比島攻防戦でフィリピン人の犠牲は百万人を超えた。軍政下の記憶と相まって、戦後も長く、対日感情は最悪だった。賠償交渉も進まない中、いち早くボクシングの交流がはじまる。東洋チャンピオン・カーニバルから東洋タイトル戦へ。人々は熱狂した。
後楽園スタヂアムを仕切る興行界の顔役、田辺宗英は戦前、政治結社・玄洋社につながるアジア主義者、国粋主義者だった。日比の親善友好がうたい文句ではあったが、関係者の多くは、かつて「大東亜」を夢見た人々だった。ときの首相、岸信介も新たな東南アジア戦略の一環として興行を後押しする。
「大東亜」を「東洋」という言葉で浄化しつつ、老人たちは再び仮構の夢を見ていく……。著者は、東洋戦の背後には秘められた企図が潜んでいたことを解き明かしつつ、同時に、戦後の新しい息吹を伝えている。
金子繁治、矢尾板貞雄、勝又行雄……東洋の王座を担ったボクサーたちは、現地で生の親善交流の矢面に立った。
親父を日本兵に殺された――。勝又は試合後、そう言ってナタを持って現れた現地人と出くわした。一方で、賭けに儲け、一杯おごるといってきかない現地人もいた。ボクシング好きのフィリピン人はボクサーに友好的だった。勝又が島の女子高生に囲まれソフトボールに興じる写真が見えるが、微笑ましい。人々の交流は、国策や政治的思惑を超えてあるものだった。
「拳闘」に親しんだ日本と較べ、フィリピンはボクシング先進地だった。アメリカの統治下の置き土産、科学的トレーニングを身に着けたボクサーたちのテクニックは華麗で合理的だった。「科学」はやがて戦後日本の国是となり、「豊かな社会」の出現とともに東洋戦は役割を終えていく。
著者は比較社会文化学専攻の研究者。直接証言と第一次資料を丁寧に渉猟した上での手堅い記述である。若き日、宮崎のジムでサンドバッグを打った日々もあったとか。一九五〇年代、空白の時代を新たに照らし出す労作であり、ボクシングを愛する姿勢が読後感をいいものにしている。
のりまつすぐる/1977年愛媛県松山市生まれ。九州大学大学院比較社会文化学府修了。博士(比較社会文化)。現在、関東学院大学兼任講師。専攻:スポーツ社会学、カルチュラル・スタディーズ(文化研究)。本書が初めての著書。
ごとうまさはる/1946年京都府出身。ノンフィクション作家。著書に『天人 深代惇郎と新聞の時代』『言葉を旅する』など。