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禰豆子の竹筒は「女は喋るな」という意味なのか?

 毎日新聞の記事『これじゃあ男もしんどくない?「鬼滅の刃」の男女観』で元サンデー毎日編集長の山田道子氏が挙げた「禰豆子は基本『助けられるヒロイン』」という指摘も疑問である。

 むしろ禰豆子というキャラクターの最大のポイントは、「戦いたい時に箱から出て戦い、守られたい時には箱の中でグーグー寝る」という過去にない「人を食う以外は何してもいいフリーダム設定」によって、低年齢の女子児童が鬼滅ごっこに参加しやすくなったことにある。実際、映画興行の観客を見ていても、鬼滅の観客の女子児童率は非常に高い印象だ。

「鬼にならないように竹の口枷をくわえているのは『女はしゃべるな』みたいに私には思えるし、鬼にならないと戦えないのもなぜ?と思ってしまう」という山田道子氏の記事中の言及に至っては「あの、そもそもちゃんと読んでないですよね?」としか言いようがなく、鬼にならないように竹をくわえているのではなく、もう鬼なのである。

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劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』公開中PVより

 鬼にならずに戦っている多くの鬼殺隊の女性メンバーを完全無視で論じるのもどうかと思うが、禰豆子というキャラクターは「無惨様に傷つけられて被害者となったことにより、鬼殺隊のような超絶訓練なしで鬼と戦う鬼パワーを手に入れた」という、被害者デビルマンみたいな優れたキャラクター性がポイントの「戦うヒロイン」である。

 竹筒をくわえているのは「女はしゃべるな」という意味ではなく、被害者となり自分の言葉を失った禰豆子が人間性を回復し言葉を取り戻していくプロセスがこの作品のテーマの根幹にあるからであって、これは『千と千尋』の主人公・千尋が湯婆婆に「千尋」という名前を奪われそして取り戻す構造によく似ている。

『鬼滅の刃』では他に鬼殺隊の女性メンバー、甘露寺蜜璃の描写も賛否が分かれることが多い。だがこの甘露寺の描写にしても、「いかにも女子力、いかにもお色気担当」的なビジュアルでキャラクターデザインされながら、実は「怪力であること、大食であること、髪の色がちがうことで大正女性の枠組みからはずれて見合いが破談になった」という大正フェミニズム的な背景を持っている。

甘露寺蜜璃(『鬼滅の刃 14』 より)

 この『恋柱』甘露寺蜜璃と恋に落ちるのが『蛇柱』伊黒小芭内なのだが、彼は「女性ばかり生まれる一族に370年ぶりに生まれた男、女の鬼への生贄として差し出され凄惨な虐待を受ける」という、フェミニズムを裏返したような「被害者としての男性」的な背景を持っている。

 まるでジェンダーロールをはみ出した甘露寺蜜璃とちょうど一対になるようなこの二人のはかない恋愛の描き方を見ても、作者のジェンダー観が決して単純に復古主義的なものでないことは読み取れるのではないかと思う。

 毒を使う胡蝶しのぶが、女性を殺す美しい上弦の鬼『童磨』を突き放す笑顔や、かつて無惨に精神を支配された復讐を誓い鬼の不死を研究する珠世には、MeToo的な女性観も感じる。