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 しかし2017年、東京都の依頼で島嶼部を考える「東京宝島推進委員会」の委員に就任したことで、伊豆諸島との縁が開けることになり、勉強する機会ができました。

 まず伊豆諸島には思っていたよりも多くの島があり、距離的にも本土からかなり離れたところまで、それらの島々が分布しています。伊豆七島を本土側から順に挙げると、「大島(伊豆大島)」「利島」「新島」「神津島」「三宅島」「御蔵島」「八丈島」と来て、八丈島から約70キロ南に行くと、青ヶ島があります。各島はそれぞれ地形や気候など、特有の環境を持っています。

 上空から伊豆諸島を俯瞰すると、「海の飛び石」のように見えます。本土側から見て青ヶ島は最後の飛び石で、そこからはるか先まで南下した場所に小笠原諸島があります。いずれの島も東京都心部からは離れていますが、車はすべて品川ナンバーです。

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「島流しの地から観光地へ」の流れに取り残されて

 いうまでもなく日本は列島国で、島の数は6800以上にのぼり、有人島だけでも300以上あるとされています。最近では「島」と聞けば、人々は主に「自然豊か」「美しい」「可愛らしい」といったイメージを思い浮かべることでしょう。しかし、昔の小さな島は生活の厳しさゆえか、「怖い」「暗い」というイメージでとらえられ、そこから「流罪」という刑罰が生まれました。

「遠島」つまり島流しは、当初は天皇、武将、公家などの「政治犯」のみが対象でしたが、江戸時代からは賭博や、故意、過失にかかわらず人を殺した罪人にも適用され、各藩は領地の島々に、それらの罪人を送るようになりました。薩摩藩では奄美大島と沖縄(琉球)、尾張藩は篠島、福岡藩は玄界島など、多くの藩で行われた島流しは、実に1908年まで続いていたのです。

 徳川幕府の流刑地としては佐渡島がイメージされますが、数でいえば天領の伊豆諸島が一番多かったようです。「八丈島歴史民俗資料館」によると、江戸時代は三宅島の約2300人を筆頭に、八丈島1865人、大島約150人、利島10人、新島1333人、神津島83人、御蔵島50人、そして青ヶ島に6人が流されたとされています。

かつては島流しの地だった ©️大島淳之

 その歴史は、第二次世界大戦後にほぼ忘れ去られました。ほどなく八丈島は「日本のハワイ」と呼ばれるようになり、リゾートとして持てはやされる時代が来ました。それでも遠く離れた青ヶ島は、観光客がほとんど行かないままの状態が続いて、現在に至っています。

 東京宝島推進委員会の目的は、島嶼部の観光の可能性を探ることでした。青ヶ島の視察を依頼された時、私は年甲斐もなく大喜びをしてしまいました。そして2019年10月、ついに青ヶ島に上陸することができたのです。