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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

2022/01/29

source : 文藝春秋

genre : スポーツ

山田重雄と小島孝治 激しいライバル関係

 大学を卒業し、三鷹高校の体育教員になった山田は、五輪の全日本監督になることを決意し、再び「私売ります」と履歴書の束を抱え、多摩地区の企業にバレー部設立の話を持ちかけ歩いた。話に乗ったのが小平市に半導体の工場があった日立製作所だった。山田は高校の教え子を呼び集め、東京五輪の翌年に実業団チームの「日立武蔵」を発足させた。

 一方、東洋の魔女の代名詞であった日紡貝塚(後にニチボー)の監督には、大松博文に代わって四天王寺高校の体育教師だった小島孝治が就任。このとき以降、日本バレー界は、小島対山田の激しいライバル関係に90年代まで翻弄されるのである。

 日立武蔵の監督となった山田は、徹底して大松バレーを否定した。

 拾い、守り、耐える守備型に対し、打って攻め、砕く攻撃型を標榜。「俺について来い」方式ではなく、女性の自主性を尊重する。全面に明るさを強調し、ユニフォームのオレンジ色をチームカラーにした。しかしその当時、戦略家の山田の性格は表向きの姿とは反対に、粘着質で暗かったと、山田より1歳上の小島が語ったことがある。

「ニチボーの人事部から、僕の周辺調査をしているヤツがいると聞いた。給料はいくらかとか、会社でどんな仕事をしているかとか、会社のバレー部の理事になったのはどんな功績があったからなのか、とか。調査人はシゲ(山田)だった。僕を調べ上げてそのデータを土台にし、それ以上の環境作りや待遇を、日立に要求しようとしていたんちゃうかな」

 当初、メキシコ五輪の監督に大松の後継者である小島が有力視されていた。

東京五輪で金メダルに輝いた大松博文と“東洋の魔女” ©文藝春秋

 だが、66年夏の世界選手権選考会を兼ねたNHK杯でニチボーは、6年9カ月間保持していた258連勝の記録をヤシカに止められ、続く試合でも日立に白星を献上。NHK杯を制したのは、山田率いる新興チームの日立だった。

 山田はメキシコ五輪の1年前に、NHK杯、日本リーグ、そして全日本総合のビッグタイトルを獲得したことから、本命視されていた小島に代わって全日本の監督に就任。36歳の全日本監督が誕生したのだ。

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