「ユニホームを脱いでからが勝負だ」。監督は選手に何度も説いた。人生後半戦をどう生きるか。それが問われる――。野村克也の薫陶を受けた“野村チルドレン”は、プロ野球選手を引退後、ビジネスの世界で活躍している。誕生日の6月29日、3人のビジネスリーダーが、「野村の教え」を紹介してくれた。

遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと』の著者で、野村の“最後の話し相手”となった、元サンケイスポーツ記者、現在はジャーナリストの飯田絵美氏が、住宅測量・地盤改良企業の副社長として会社を率いるG・G・佐藤氏に聞いた。(全3回の1回目。#2,#3を読む)

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高校・大学では試合に出ることは滅多にない補欠だった

――G・G・佐藤の登録名でプレーした佐藤隆彦さんは、現在、住宅測量、地盤改良企業として知られるトラバース副社長で、トラバースエンジニアリング社長。中学生の頃、野村沙知代さんがオーナーのシニアリーグ「港東ムース」で、野村との縁を得た。

 野村さんは(シニアリーグの)試合前になると顔を出してくれました。「次はカーブが来るぞ」「スライダーだ」と言うと、本当に投手が投げてくる。「このカーネル・サンダースみたいな人、すげー」と思ったのが初対面の印象です。

 港東ムースの練習は「野球を辞めたい」と思うほどきつくて、入団当時30人いた同学年は、卒団式では10人になっていました。その一人ひとりに、沙知代さんが色紙を渡してくれたんです。野村さんの直筆で、『念ずれば花ひらく』としたためてありました。

野村克也氏からもらった「念ずれば花ひらく」の色紙を持つG・G・佐藤氏

「やりたいこと、夢というものは、一生懸命に念じれば叶う。必ず叶うんだ。夢が叶わなかった人は、途中で念ずることを止めた人なんだぞ」

 野村さんの説明を聞いて、目の前がパーっと明るく開けました。「そうか、諦めなければ夢は叶うんだ」と、心に強くインプットされたんです。

 高校では通算3本、大学では通算1本しか本塁打が打てない選手でした。試合に出ることは滅多にない補欠。「やっぱりプロ野球選手なんて無理なんだ」とくすぶるときもありました。そんなとき、あの色紙の言葉が思い出されてくるんですよ。「もう1日だけ頑張ってみよう」「この一瞬だけやってみよう」と。

2008年北京オリンピックで痛恨の落球を連発

 北京に行く前、「オリンピックの試合なんて余裕だ」と思っていました。現実は全然違った。国際大会のプレッシャーはものすごい。対戦したのは、キューバ、米国、韓国といった国際チームです。監督やコーチは星野仙一さん、田淵幸一さん、山本浩二さんという顔ぶれ。

 星野監督は「金メダル以外いらない」と宣言。準備不足だった僕は、「負けられない」と恐怖を感じてしまった。