「ユニホームを脱いでからが勝負だ」。監督は選手に何度も説いた――。「人生の後半をどう生きるか、それが問われるんだ」と、教え子の行く末を心配していた。そんな野村克也の薫陶を受けた“野村チルドレン”は、プロ野球選手を引退後、ビジネスの世界でも活躍している。誕生日の6月29日、3人のビジネスリーダーが、「野村の教え」を紹介してくれた。

遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと』の著者で、野村の“最後の話し相手”となった、元サンケイスポーツ記者、現在はジャーナリストの飯田絵美氏が、スポーツのデータ解析会社で活躍する松元繁氏に聞いた。(全3回の3回目。#1,#2を読む)

◆◆◆

ADVERTISEMENT

引退後も“プロ野球選手としての自分”を吹っ切れなかった

――松元繁さんは投手として89年、ドラフト5位でヤクルトに入団。しかし97年、右肩の腱を手術。リハビリを経て99年、二軍で投げ始めた矢先、肩痛を再発した……。

 99年のオフ、球団のフロントが「繁、どうする?」と尋ねてくれました。クビが決まっているだろうと、こちらは理解していました。

 でも「どうする?」と言ってくれたことに、球団の優しさを感じました。「しんどいです。もう無理だと思います」。そう告げたとき、僕は28歳でした。

松元繁さん

 ありがたいことに、バッティング投手として球団に残る道を勧めてもらえました。でも肩痛で投げられない。すると、「フロントで残る道を考えよう」と言ってくださった。小谷(正勝)さん(元投手コーチ)は医療系商社を紹介してくれました。

 でも、どちらもお断りしました。僕はまだ“プロ野球選手としての自分”を吹っ切れていなかった。「ケガさえしなければ、自分も彼らと一緒に戦えたんだろうな……」と考えてしまった。

ユニホームを脱いだとき、野村の真意に気づいた

 引退してしばらくは、何もしませんでした。ですが半年が過ぎた頃、「そろそろ動きなさい」と妻に促され、飯田橋の就職説明会に顔を出しました。面接官から「希望年収は?」と尋ねられ、世間の相場が分からなかったので、自分の中ではすごく金額を下げて「500万くらいでお願いします」と言った。面接官は机の上にあったクリップを右から左に動かしながら、「500万円って……仕事って、右から左にクリップを動かすみたいに簡単なもんじゃあないんですよ」と。