非現実的な幸せのイメージによって私たちが不幸せになるリスク
このようなキャッチコピー、本、セミナーそして9億200万件のグーグル検索ヒット数により、私たちは幸せになれるし、ならなければいけないと思ってしまう。毎日最高の気分でなければだめだという気がするのだ。それによって脳は私たちの主観的な経験を、事実上達成不可能な目標と照らし合わせてしまう。恒常的な幸福感など人間にとって自然な状態ではないというのに。
美しく、ハッピーで、見た目には仲良さげな人々が南国の夕焼けをバックにしている写真を次々と見せられると、自分の情動への期待が非現実的に高くなってしまい、その期待に添えないことに気づくと──そんなこと誰にも無理なのだが──落胆する。つまり広告が送りつけてくる非現実的な幸せのイメージによって私たちは不幸せになるリスクがある。そしてこれは単なる推測ではない。
ある実験では、幸せを礼賛する記事を読んでからコメディ映画を観ると、被験者たちは鑑賞後、幸せには触れていない記事を読んだ人ほど楽しい気分になっていなかった。ここで考えられる可能性としては、幸せに関する記事がその人たちの期待値を高め、映画も素晴らしく面白いはずだという期待を生んでしまった。
そして、そのとおりにならなければがっかりする。一方で元々期待していなければハードルは低く、体験したことは自分が思っていたとおりのレベルか、それより高く感じられる。そのため映画をポジティブに解釈できるのだ。
興味深いことに、ある国で広告にお金をかければかけるほど、2年後に国民の満足度は下がっていた。広告が情動への期待を非現実的なまでに高めてしまったのだろう。その結果として私たちは落胆し不満を感じる。現実的なレベルに期待をもっていくような広告のキャッチコピーなら、私たちの幸福感にポジティブな効果をもたらしてくれる可能性もあるが、「たまには最悪な気分でもいいんだよ」と語りかけても、炭酸飲料水やマスタードや住宅保険が売れることはないだろう。
「幸せとは楽しい経験の積み重ねだ」と考えるのは、有害な誤解
私たちが普段追い求めているものは頑張れば頑張っただけ手に入る可能性が上がるが、こと幸せについてはまったく逆のようだ。追い求めるほどに、指の間をすり抜けていってしまうリスクがある。幸せになりたいと思っている人に1つだけアドバイスをするとしたら、広告の虚無なメッセージには目をつぶることだ。記事や本も閉じて、幸せという単語の出てこないユーチューブ動画を観る時でも、あなた自身の「たわごと検知器」の精度を上げておこう。
幸せになるために、幸せを無視する以外にできることはあるだろうか。ここではあくまで推測を書かせてもらう。というのも、私が上手くいっても他の人もそうだとは限らないし、どんなアドバイスであってもアドバイスというのは下り坂で背中を押すようなものだ。そのままふわふわした何か──検証不可能なきれいごとが溢れた溝に落ちてしまうかもしれないからだ。それでも1つ挙げるならば、「幸せとは楽しい経験の積み重ねだ」と考えるのが、現代社会で最も有害な誤解だと言っておきたい。
祖先たちが幸せをどのように考えていたかは知る由もないが(スウェーデン語のLycka〔幸せ〕という単語は1300年代に登場し、元は「幸運」という意味だった)、狩猟採集民がアフリカのサバンナで走り回りながら、果てしなく続く楽しい体験が人生の意義だと思っていたということはありえない。