「阿南さんは死にますね」
阿南陸相の想いは複雑であった。すでにクーデター計画が秘密裡に策定されつつあるのは承知している。一触即発の状況にあった。かれは大きな楕円形のテーブルに広げてあった書類をとりまとめて、それを副官に渡した。そして思い決したように総理室に向った。
鈴木首相はこころよく陸相を迎えた。
「総理、御前会議をひらくまで、もう2日だけ待っていただくわけにはいきますまいか」
首相は、陸相がいんぎんに少しも脅迫的でないのに、心から好感をもった。しかし、この申し出を毅然としてことわった。
「時機はいまです。この機会をはずしてはなりません。どうかあしからず」
阿南陸相はもう一言なにかいおうとしたが、思い諦めたという表情で、丁寧に敬礼をすると邪魔したことを詫び、部屋を出ていった。同席していた小林堯太(こばやしぎょうた)軍医大尉が、首相にいった。
「総理、待てるものなら待ってあげたらどうですか」
鈴木首相は答えた。
「小林君、それはいかん。今日をはずしたら、ソ連が満州、朝鮮、樺太ばかりでなく、北海道にもくるだろう。ドイツ同様に分割される。そうなれば日本の土台を壊してしまう。相手がアメリカであるうちに始末をつけねばならんのです」
小林軍医はいった。「阿南さんは死にますね」
「ウム、気の毒だが」
鈴木首相は眼を伏せるようにしていった。
陸相官邸に帰った阿南陸相を待っていたのは、さきほどいちど見せられた兵力動員計画であった。それはまさにクーデター計画なのである。
(1)使用兵力―東部軍及び近衛師団
(2)使用方針―宮城と和平派要人とを遮断す。その他、木戸、鈴木、東郷、米内等の和平派要人を兵力を以て隔離す。ついで戒厳に移る
(3)目的―国体護持に関する我方条件に対する確証を取付けるまでは降伏せず、交渉を継続する
(4)方法―陸軍大臣の行なう警備上の応急局地出兵権を以て発動す
ただし「右の実行には、大臣、総長、東部軍司令官、近衛師団長の四者が一致することを条件とする」とあった。
ついに来たるべきものが来た、という思いで陸相はこれをあらためて何度も読み直した。
「あらゆることを考えぬいた上の結論なのか。それにしては根本が漠然としているではないか」
と陸相はいい、この計画を支持するとも、しないともいわなかった。