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約100年前、時代に飲み込まれていくこの町の「変化」
1930年には横河電機製作所吉祥寺工場が開設。これが駅設置のきっかけになったのだろうか。さらに1938年には中島飛行機武蔵製作所ができる。いずれも軍需工場であった。
当初は南口だけだった出入口も、1941年には北口が誕生している。当時は「武蔵野口」と呼ばれていたという。北側にあった横河電機や中島飛行機への通勤客が利用したのだろう。
南口、現在の三鷹市側にも中央航空研究所などの軍事施設が置かれ、三鷹は小さな“軍都”の様相を呈するようになる。太宰治が三鷹に居を構えたのは、こうした都市化が進む最中の1939年のことだ。
ちなみに、中島飛行機の工場までは三鷹駅から引き込み線も分かれていた。いまでは引き込み線の跡は堀合遊歩道として整備されており、一部には線路の跡も見ることができる。東京近郊、日帰りの廃線散歩などと洒落込んでみるのも、悪くないかもしれない。
ともあれ、軍需工場が集まっていたこともあって、三鷹は戦時中には空襲被害があった。『津軽』の旅からおよそ1年後、1945年4月には太宰も空襲から逃れて甲府、次いで津軽へと疎開している。
空襲を受けた工場街が見せた戦後の「転身」
そして戦後。横河電機はそのまま本社を三鷹に置いて現役で、中島飛行機の工場は1年だけプロ野球で使われた武蔵野グリーンパーク野球場を経て公園と団地群に生まれ変わった。
戦後の人口急増によって、三鷹駅周辺は瞬く間にベッドタウンとして形を整えた。“軍都”だった時代はごくわずか。戦後のベッドタウン・三鷹の時代のほうが遥かに長くなっている。