「そのとき、中田翔は」

第7回

エンタメ スポーツ
 

 2016年のペナントレースを振り返って思い出すのは交流戦で訪れた横浜でのナイトゲームのことだ。6月半ばのDeNAベイスターズ戦、中田翔は苛立っていた。この数試合というもの、打率は1割台と低迷していて、ホームランもなく、最もこだわっている打点もほとんど挙げられていなかった。さらにこの夜は、三塁側ベンチのすぐ上から自分に向けられた野次が間断なく降り注いでいた。中年の男が口汚く叫んでいる。

 茶髪にヒゲで、愛想を振りまくこともない。中田は自分のキャラクターが万人に受け入れられるものではないことは分かっていた。ビジターでは野次の標的にされることも少なくない。それでも、打席に向かうたび、凡退して戻ってくるたび、人間性を否定されるような言葉を浴びせられ、怒りは沸点に近づいていた。

 そんな状況で迎えた延長10回表、中田はツーアウトランナーなしで打席に立った。開き直ったようにバットを振ると、打球は左翼スタンドへ届いた。決勝ホームランに敵地が静まり返る。横浜スタジアムの夜風を浴びながら、ゆっくりとダイヤモンドを一周した。ホームベースを踏んでダグアウトに戻る途中、ベンチ上の客席に目をやった。すると野次の主が消沈しているのが見えた。胸に溜まっていたものを一気に吐き出したような快感があった。

 20代になってまもない頃から日本ハムファイターズの四番を打ってきた。スランプに陥ったことも、野次に心が乱れたことも一度や二度ではない。ただ、その度にこうしてバットで解消してきた。それが中田のやり方だった。不振から抜け出すきっかけはいつも様々だ。ホームランやヒットのこともあれば、ひとつのファウルや空振りから出口が見つかることもある。いずれにしても、いつかは過ぎ去る。ところがこのシーズンは横浜でホームランを打った後も打撃感覚が戻らず、いつまで経っても湿ったバットに梅雨明けの気配がなかった。そうしているうちにチームは連勝を始めた。ソフトバンクホークスに11.5ゲーム差をつけられたところから、まるで目が覚めたように投打の歯車が噛み合い出した。加速度的に追い上げムードが高まっていく中で、四番バッターはひとり蚊帳の外に置かれた。自分が打たなくてもチームが勝っていく。複雑な思いで勝利の輪に加わる日々が、次第に中田の心を侵蝕していく。苛立ちは自責になり、やがて自分がここにいない方が良いのではないかという弱気が忍び寄ってきた。そして6月末の西武戦、ついにチーム内外をざわめかせる場面が訪れた。

 終盤の好機で打席が巡ってきた中田に代打が送られたのだ。この策は的中し、ファイターズはそのイニングにゲームをひっくり返した。

「腰の張りです。これ以上でも以下でもない。あの回に腰が張っているという報告があったので仕方ない。こちらに選択権がないんだから」

 栗山英樹は試合後、中田への代打について問う報道陣に、そう語った。監督に就任して以来、ずっと中田を四番バッターに固定してきた栗山は、あくまでアクシデントによる交代だと説明したのだ。

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source : 文藝春秋 2025年9月号

genre : エンタメ スポーツ