地方自治ジャーナリストの葉上太郎さんが全国津々浦々を旅し、地元で力強く生きる人たちの姿をルポします。地方は決して消滅しない――
世界が欲しがる山形ニット
イラストレーション:溝川なつみ
コンニャクの樹脂で固めた糸、細かくカットを入れた布を縫って作った糸、和紙をこよりにするなどした糸……。色も形も素材も違う糸が、ニットの編み機に吸い込まれる。
「全部うちのオリジナルです。糸の見本市みたいでしょう」
山形県寒河江(さがえ)市。糸からニットの服まで製造している佐藤繊維(今年度当初の社員数234人)の佐藤正樹社長(53)が説明する。「表と裏の色やデザインが異なるリバーシブルのニットも編めるんですよ」。
最新の糸を作る50年選手の紡績機を前に佐藤正樹さん
こうした独創性あふれる糸や、技術を駆使した「山形ニット」が今、世界から注目を浴びている。
佐藤さんが先鞭をつけ、若手経営者が続いているのだ。
だが、これまでのニット産業はじり貧だった。「日本のセーターの国産比率は0.5%です。しかも、その3分の2は輸入した糸を使っています」。日本ニット工業組合連合会の理事長でもある佐藤さんは語る。それなのに、なぜ世界が目を向けるのか。
綿、麻、絹の織物しかなかった日本に、羊毛のウールが本格的に導入されたのは明治時代だ。
「ウールは水を弾き、空気の層ができて寒さがしのげるため、西洋では神様の贈り物とされてきました。日本でまず用いられたのは軍服です。戦争をするにはウールを自給しなければならないので、山形県や福島県の農家に羊を飼わせました。私の曾祖父は1932年、農家が育てた羊の毛を紡ぐ会社を設立しました」と佐藤さんは話す。
だが、45年の敗戦後、羊の飼育は廃れて輸入に変わった。山形や福島はアパレルメーカーのOEM(他社のブランドでの製造)工場としてニットの産地になっていった。
ニットの生産量は高度経済成長期から急速に伸びた。山形では寒河江市や山辺(やまのべ)町に工場が集積した。
「ところが、中国で同じ物が安くできると分かると、アパレルメーカーはどんどん中国産に切り替えました。日本のニットはヨーロッパのまねをしただけで、独自の文化がなく、移転は簡単でした。安く大量に作ってボロもうけしようというビジネスしかなかったのです」と佐藤さんは解説する。国内のニット工場への発注は激減し、倒産が相次いだ。
山形県では、佐藤さんが家業を継ぐために入社した92年をピークに、ニットの生産量が落ちていったという。「約450社あった県ニット工業組合の加盟社は、現在約20社しかありません。その20社も製造規模は軒並み3分の1以下になってしまいました」と語る。
入社から5年後のことだ。将来に危機感を抱いていた佐藤さんは、イタリアの紡績工場を視察して衝撃を受けた。職人は「俺達が世界のファッションを作っている」と自信に満ちあふれていた。自前でマーケティングをし、オリジナリティーに富む糸を紡いでいた。
「独創性が鍵だ」と感じた佐藤さんは、会社に最新の紡績機の導入を提案した。「そんな余裕はない」と言われたため、発想を変えた。
「古い機械は粗悪な原料でも糸が作れる構造になっています。少し改造すれば、変わった糸が作れる可能性があったのです」
現在、最新の糸を紡いでいるのは50年以上前に製造された機械だ。他にも古い紡績機を買い集めて改造し、独自の糸を製造している。工場を案内してもらうと、佐藤さんは紡績中の糸をひょいと摘んで、少年のように目を輝かせる。「これは和紙の周りに、ウールをラッピングした糸です。触るとウール。持ち上げたら和紙。面白いでしょう」。
だが、こうした糸は当初、なかなか理解されなかった。西洋の展示会でも、一部のデザイナーを除いては「奇抜なだけだ」と酷評された。
2009年、オバマ前アメリカ大統領の就任式で、ミシェル夫人がフランスのブランドのカーディガンを着た。佐藤さんが生み出した超極細の糸で編まれていた。
「カーディガンは家で羽織るものなのに正装の場で、と世に衝撃を与えた出来事でした。でも、あの瞬間からニットの定義が変わったのです。太い糸を使った昔のニットはカジュアル着でしたが、細いエレガントな糸を使うことで、正装の場でも着られると認知されました。糸が世界のファッションを変えたのです」
この時は脚光を浴びたものの、ビジネスには結びつかなかった。
佐藤さんに対する世界の目が変わったのは6年ほど前だ。
「和食ブームなどで日本への関心が高まり、私達の糸も西洋文化を理解したうえで、あえて独自の糸を作っていると分かってもらえました。今では佐藤繊維の糸を使うことが世界のデザイナーのステイタスになり、外国の展示会ではブースに入りきれないほどの人だかりになります」
年間15回も海外へ行き、展示会や原料探しに忙しい佐藤さんは、世界に知られる糸作家になった。
蓄積を再発見し作る意味を問う
糸とは別にニットの世界でも仕掛けてきた。受注が激減していた1年、「M.&KYOKO」というブランドを世に出したのだ。それまでは工場が独自のブランドを打ち出すのは不可能に近いと言われていた。
可能にしたのは、ニットでも逆境をプラスに変えたからだ。佐藤さんが入社する直前、社長だった父が奮発して10ゲージの編み機を7台入れた。1インチに10本の針がある機械だ。ゲージは数字が小さいほど糸が太く、編み目が粗い。7ゲージが主流だった山形では最新鋭機だった。
ところが、すぐに12ゲージの時代になり、アパレルメーカーからの注文は途絶えた。買い換える資金はない。このため7ゲージ用の太い糸や12ゲージ用の細い糸を使って、10ゲージの機械で編んだ。すると変わった風合いのニットができた。これを武器にしてアパレルメーカーから注文を取った。そうした技術を駆使して独自ブランドを立ち上げた。
ところが、競合を恐れるアパレルメーカーから「もうOEMの発注をしない」と脅された。「それなら誰にも文句を言われない場所で」と、アメリカの展示会に出品した。斬新さが注目されたものの、日本製は高い。「一流の展示会でなければ価格が合わない」と指摘された。
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source : 文藝春秋 2020年1月号