地方自治ジャーナリストの葉上太郎さんが全国津々浦々を旅し、地元で力強く生きる人たちの姿をルポします。地方は決して消滅しない――
木地師発祥の集落 ギリギリの知恵
イラストレーション:溝川なつみ
電動のロクロがうなる。小椋(おぐら)昭二さん(68)が刃物を当てると、シュルシュルと木屑が飛んで、お盆が姿を現した。まるで木に埋もれていたのを掘り出したかのようだ。
ロクロを回す小椋昭二さん(君ケ畑)
鈴鹿山脈に深く分け入った滋賀県東近江市の君ケ畑(きみがはた)集落。生まれも育ちも同所の小椋さんは君ケ畑でただ1人の「木地師(きじし)」だ。ロクロで木を削り、食器などを作る職人である。
しかし、作品が販売できるようになるまでには紆余曲折があった。
小椋さんは兄と製材所を営んでいたが、材木の需要が減って、転職せざるを得なくなった。木が好きだったので、木地師になりたいと思った。1994年のことだ。
近隣には学べる人がおらず、愛知県の木地師にやり方を教わった。我流で技術を磨き、1年後にはその木地師から「これなら販売できる」と合格点をもらった。が、怖くて売れなかった。「売ろう」と思えるまでには、さらに3年かかった。
「君ケ畑の木地師」は全国でも特別な存在だったからだ。君ケ畑は、隣の蛭谷(ひるたに)集落と共に「木地師発祥の地」とされているのである。
その歴史には謎が多い。
伝説がある。平安時代初期、皇位継承争いに敗れた文徳(もんとく)天皇の第一皇子・惟喬(これたか)親王は京を離れて小椋谷に隠棲した。君ケ畑や蛭谷の一帯だ。親王はドングリの殻を見て木椀を作ろうと考えた。巻物をひもとく時にクルクル回るさまからロクロを発明した。これを民に教えたのが木地師の始まりとされている。君ケ畑には大皇器地祖(おおきみきじそ)神社、蛭谷には筒井神社という親王をまつる神社がある。
史実はどうなのか。筒井正・愛知学泉大准教授(63)は「国内では弥生時代の遺跡からロクロの存在をうかがわせる器が見つかっています。奈良時代に100万個も作られたという高さ約20センチの木製の小塔には近江のロクロ工の名前が記されていました」と話す。
ただ、君ケ畑と蛭谷に多くの木地師がいたのは間違いない。
「近江出身の戦国大名・蒲生氏郷(がもううじさと)が1590年、会津に移封された際には、君ケ畑から多くの木地師を連れて行きました」と筒井准教授は解説する。なのに両集落からは、木地師が消えてしまった。
木材が不足し、小グループに分かれて全国へ散ったと見られている。「特に江戸時代は鉱山開発が盛んになり、両集落の奥にあった茨川(いばらかわ)の銀山も最盛期を迎えました。精錬には大量の炭が要るので、手当たり次第に伐採したはずです。木地師には致命的でした」と筒井准教授は話す。茨川は1965年に“廃村”になったが、最後まで住んでいたのは筒井准教授の一家だ。准教授の母は蛭谷の出身だった。
江戸時代、木地師は全国の深山を漂泊しながら食器を作り、藩の支配を受けなかった。
これを統括したのが両集落だ。君ケ畑は「高松御所(たかまつごしよ)」、蛭谷は「筒井公文所(くもんじよ)」という組織を運営し、それぞれ集落の人が各地の木地師を巡回した。木地師を惟喬親王ゆかりの神社の氏子ととらえて神札を配り、社殿の維持経費などを募る形で現金を徴収したのである。替わりに天皇が与えたとされる綸旨(りんじ)や、織田信長や豊臣秀吉が授与したと記された免許状を発行した。これらは諸国往来自由のお墨付きなどとして使われた。
全国行脚の記録は、君ケ畑は「氏子狩帳(かりちよう)」(1694〜1873年、53冊)、蛭谷は「氏子駈帳(かけちよう)」(1647〜1893年、34冊)として各集落が保管しており、延べ約3万人分の木地師の名前などが記されている。実態解明のために筒井准教授がデータを整理中だ。
明治維新で戸籍が整備された時には、両集落を本籍地とする木地師もいた。そして多くの木地師が「小椋」などの姓を名乗った。
だが、明治政府は山林の国有化と皇室財産化を進めたため、木地師は次々と廃業していった。
今でも2集落を故郷と考える木地師やその末裔は多い。両神社には全国から参拝客が訪れる。
しかし、肝心の2集落は林業が下火になると一気に人口が流出した。君ケ畑には明治初期、65軒に約620人が住んでいたが、現在は12軒に16人しか住んでいない。移住者の若者夫妻を除いては全員が高齢者だ。冬期は施設で過ごす人もいて、春までは10軒以下になる。
ところが、集落を維持するため、驚くべき手段を編み出していた。他地区に住む出身者も自治会員にしているのだ。このため自治会には実際の居住者の倍以上の27軒が加入している。こうした“二重国籍”の自治会は極めて珍しい。
現自治会長の有馬殿(ありまでん)清さん(61)も同県近江八幡市に住んでいる。造園会社に勤めており、休日にしか君ケ畑へは戻れない。
「父の転勤で転出したので、君ケ畑で過ごしたのは生後1〜2カ月です。父母は定年退職後、君ケ畑へ帰りましたが、私は近江八幡市に一家を構えました。車で片道1時間もかかります。でも、苦にはなりません。自然が美しいし、釣りも好きですから」と笑う。
実は、君ケ畑には出身者を巻きこむための「仕組み」があった。
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source : 文藝春秋 2020年3月号