文・岡田悠(おかだ・ゆう)|Twitter:@YuuuO
会社員兼ライター。有給をすり減らして国内外を旅するのが趣味。『cakes』『オモコロ』等で旅行記やエッセイを連載中。noteに執筆したイランへの旅行記が「世界ウェブ記事大賞」を受賞した。
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結婚を決めてまず頭をよぎったのは、入籍日でも結婚式でもなく、新婚旅行のことだった。旅行好きとして、どうしても行きたい場所があったのだ。それが南極だった。
一度でいいから、「極地」と言われる場所に行ってみたかった。極地。心震える響きである。探検家でも冒険家でもないただの会社員の僕にとって、唯一のチャンスは新婚旅行だった。それを逃すことなどできない。幸い奥さんも乗り気だったので、有給と正月休み、そして結婚休暇を組み合わせるという「会社員の本気」を発動して、南極への旅を決行した。
極地は遠い。これまでも有給を駆使しながら70ヶ国近くを旅してきたが、南極はずば抜けて遠かった。まずアルゼンチンまで飛行機で丸2日。そして最南端の都市ウシュアイアから船に乗り、「ドレーク海峡」という世界で最も荒れる海を進むこと3日。片道合計5日間の旅程である。旅の半分は移動が占める。
中でもドレーク海峡は噂に違わぬ過酷さだった。海は南極に近づくほど荒々しくなり、緯度によって「吠える40度」「狂う50度」、さらには「絶叫する60度」と呼ばれる。ついには立ってもいられないほどの揺れに襲われ、結婚祝いにもらったシャンパンボトルが卓上からふっ飛んでいった。新婚旅行ってこんなんだっけ?
そうして長い長い旅路を経たのちに、突然静寂が訪れる。早朝に艦内放送が流れ、寝ぼけ眼で急いでデッキへと繰り出した。眼前に広がっていたのは、見渡す限り青と白だけの世界。南緯66度33分、南極圏だった。
まるで地球が裸になったみたいだ。全てが剥き出しの景色に、ただ圧倒された。この星で唯一、どの国にも属さない大陸。3000万年の間に降り積もった雪が、数千メートルの厚さの氷となってそびえる果て。「自然」を辞書で引くと「人手を加えない、ありのままの状態」とある。ここは桁外れの自然だった。
南極の地形は極めて起伏に富んでいて、上陸する度に登山が始まる。ピッケルを握り、急斜面を息を切らしながら登っていく。通常の登山と異なるのは、空気が澄んでいるために吐く息が白くならないことと、ペンギンがしょっちゅう横切っていくことだ。
南極はまさにペンギンたちの楽園で、数万匹が生息する営巣地もあった。ペンギンには5m以内に近寄ってはいけないので、彼らが通り過ぎるのをのんびりと待つ。ヨタヨタと頼りなく歩くペンギンたちは、いつも途中で腹ばいになって滑り始めた。そっちの方が速いのだ。そういった微妙な残念さこそ、ペンギンの魅力の源泉であると思う。
さて、南極の旅においては上陸以外にも、船内で様々な講義や行事が開催される。その日に流れた艦内放送は、ひときわ奇妙なイベントの案内だった。
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source : 文藝春秋 2020年5月号