米中コロナ戦争 CIAと武漢病毒研究所の暗闘

峯村 健司 キヤノングローバル戦略研究所主任研究員
ニュース 国際 中国
初期段階で感染状況を隠蔽した結果、一時は窮地に陥った習近平政権。トランプ政権も中国批判の声を強めていた。だが、2月末以降、米中の情勢は急転していく。習近平は、なぜ絶体絶命のピンチを切り抜けたか。

研究所発生源説

 新型コロナウイルスを巡り、米国大統領、ドナルド・トランプの中国批判が止まらない。

「中国国内で食い止められた可能性もあったが、実際はそうならなかった。ミスにより収拾がつかなくなってしまったのか、意図的だったのか。両者には大きな違いがある。故意だったとしたら報いを受けるべきだ」

 トランプが4月18日の会見でこう語ったように、いま、焦点となっているのは、ウイルスの「発生源」である。特に、米国から疑念の目を向けられているのが湖北省武漢市にある政府系研究機関「中国科学院武漢病毒(ウイルス)研究所」だ。発端は4月14日付けのワシントン・ポストの報道である。同研究所を視察した米外交官が、2018年に本国に送った外交電報の内容を明らかにしたのだ。

「この研究所ではコウモリに寄生するコロナウイルスの研究をしているが、安全に運営するための訓練を受けた技術者が不足している。このウイルスは人に感染する恐れがあり、重症急性呼吸器症候群(SARS)のような感染拡大を引き起こす危険性がある」

 新型コロナはコウモリ起源とみられている。つまりこの記事は、米政府が2年前の時点で、SARSの再来を懸念していたことを明らかにしたのだ。

 記事を執筆した同紙コラムニストのジョシュ・ロギンは、筆者が勤務していた朝日新聞アメリカ総局の元同僚で、ホワイトハウスや国務省の幹部に幅広い人脈を持っている。今回の電報は政権内部から入手したとみられ、信頼性の高い報道だろう。

 実は筆者も武漢ウイルス研究所に関心を抱いていた。武漢には多くの重要な軍事関連施設があり、北京特派員時代にしばしば取材で足を運んでいた。軍と関係があると言われている武漢ウイルス研究所にも着目しており、今年1月に新型コロナの感染が表面化したとき、すぐにその名前が思い浮かんだ。

 改めて研究所のHPを確認すると、ワシントン・ポストが指摘したように、2018年3月に米外交官が訪問し、研究員の石正麗らが応対した様子が写真付きで紹介されていた。石は新型コロナがコウモリを感染源とすることを示した論文の執筆メンバーの一人だ。現在、このHP上の記載は削除されている。

 ワシントン・ポストの報道から5日後の4月19日、武漢ウイルス研究所研究員の袁志明は「絶対に研究所から出たものではない。我々には厳しい管理制度・科学研究基準があり、自信がある」と流出疑惑を強く否定した。

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武漢病毒研究所

 一方、冒頭でトランプが「故意」を疑ったように、ネット上で同研究所が開発した、「生物兵器説」が根強く囁かれていた。同研究所内には、有効な治療薬や予防法がない病原体について研究する「バイオセーフティレベル4」の施設を備える国家生物安全実験室があることも疑惑を深める。2月末、筆者が米国を訪れた際、中国勤務の経験がある米政府当局者はこう答えた。

「生物兵器の可能性はないだろう。致死率が低く、自らを守るワクチンも開発されていないため、兵器としては使えないからだ。コウモリなどから自然発生したウイルスだとみているが、発生源は謎のままだ」

 だが、トランプは「研究所発生源説」について「徹底的に調査する」と述べ、今後も追及を強める構えだ。

トランプの素早い動き

 中国政府が、新型コロナがヒトからヒトに感染することを明かし、国家主席の習近平が「断固として蔓延を抑え込め」と指示を出したのは1月20日のことだった。

 この発表を受けた米政府の動きは速かった。中国での感染者数が1万人に迫っていた1月30日、トランプは他国に先駆けて中国全土への渡航禁止措置に踏み切る。この時、日本は湖北省への渡航中止を勧告していたに過ぎない。

 なぜ、トランプはわずか10日間で最高レベルの規制に踏み切ることができたのか。東アジア外交に携わる米政府当局者が言う。

「我々は昨年12月初旬には中国内の異変を察知していたからだ」

 武漢市では、遅くとも昨年12月初旬までに原因不明の肺炎患者が発生し、その脅威について現地の複数の医師らが通信アプリ「微信」上で指摘していた。その「書き込み」は次々と削除されたが、この当局者によれば、武漢の米総領事館や中央情報局(CIA)などは素早く保存し、現地で医療関係者にも接触。証言の分析には、疾病予防管理センター(CDC)も加わり、いち早く未知のウイルスの感染拡大を察知していた。

 米国は武漢でつかんだ情報を中国政府に突きつけて説明を求める一方、衛星写真や通信傍受も行い、感染状況を追い続けたという。米政府高官は筆者にこう語った。

「感染力が極めて強いことも、無症状の感染者が多数いることも、中国政府が公表する前に把握していた」

 米国は、中国側の公式発表だけを信じずに、素早い渡航制限に踏み切ったことで、「ウイルス対策のための時間を6〜8週間も稼ぐことができた」(オブライエン米大統領補佐官)。対中外交に携わる日本政府関係者は「外交部門だけではなく、情報機関や衛生部門も一体となった情報収集能力はさすがだ」と評する。

崖っぷちの習近平

 中国政府は対外的にも、「1月3日から米国政府にウイルスの状況を30回も報告してきた」(華春瑩報道局長)と公表しているが、その一方で、世界各国に対しては初期段階から隠蔽を続けてきた。それを主導したのは、ほかならぬ習近平である。

 2月15日、共産党機関誌「求是」に、習が2月3日の最高指導会議で行った演説内容が掲載された。

「1月7日、私は政治局常務委員会議を招集し、新型コロナウイルスによる肺炎の予防・抑制についての要求を出した」

 前述のとおり、習が公式に感染抑制を指示したのは1月20日。それより13日も早く、新型コロナの脅威を自ら把握していたことを認めたのだ。これによって、それまで湖北省や武漢市が政府に報告を上げなかったために対応が遅れた、とされていた前提が完全に覆された。

 習がこのタイミングで隠蔽を認めるような発言を公表したのはなぜか。中国共産党高官を親族に持つ党関係者が当時を振り返る。

「感染拡大が止まらない状況で、習近平政権が追い込まれていたからだ。中国メディアだけでなく、インターネット上でも政府に批判的な書き込みが続出し、当局が削除し切れないほどだった。トップとして新型肺炎の状況を早い段階で把握して適切な措置をとっていたと釈明せざるを得なかったのだろう」

 だが、それでも批判は収まらなかった。習近平を崖っぷちにまで追い込んだのは、武漢中央病院の眼科医、李文亮の死去だ。李は昨年12月末の段階で新型ウイルスについて「微信」を通じて同僚らに警鐘を鳴らしていたが、「デマを流した」として地元警察の処分を受けた後、自らも新型肺炎に感染した。

 李が亡くなったのは2月7日とされていたが、実はここでも中国政府の情報操作が行われていた。武漢で現地取材を行った中国メディアの記者が舞台裏を語る。

「実は、病院側が李医師の死去を確認したのは6日夜のことで、我々はこれを受けて記事を配信しました。ところが、当局からすぐに記事を取り消すように指示があったのです。さらには懸命の救命措置をしているかのように『微信』で発信することまで指示されました。政府を挙げて懸命に治療していることをアピールしたかったのでしょう」

 だが、翌7日未明に当局が李文亮の死去を正式に発表すると、政府への怒りがSNS上で噴出した。

「李医師は政府に殺されたのだ」

「政府の隠蔽の最大の犠牲者だ」

 世論の圧力を受けた習近平はすぐさま火消しに動いた。李の死去を公表した当日の午後には、武漢に調査チームを派遣。その6日後には、湖北省と武漢市の両党書記を解任した。感染が広がっている最中、現場の2トップのクビを切るのは極めて異例のことだ。

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武漢を視察する習氏

3段階の戦略とは

 これは習近平政権の7年間で、ネット世論に突き動かされて政策の変更を余儀なくされた初めてのケースだ、と筆者は分析している。

 習近平は国家主席になってから、共産党史上最大規模の反腐敗キャンペーンを展開して200万人を超える党員を摘発・処分し、権力基盤を急速に固め、「一強体制」を築いてきた。そんな習近平にとって、新型コロナは初めての挫折だったのだ。

 ちょうどこの頃、筆者は旧知の米政府当局者からこんな質問を受けた。

「そう遠くない時期に習近平は退陣に追い込まれる可能性があるとみているが、どう分析しているか」

 だが、筆者はその見方を否定した。

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source : 文藝春秋 2020年6月号

genre : ニュース 国際 中国