時々、飲み会の席などで「自分の人生は小説になる。ネタにしてもいいよ」みたいなことを言われることがあるけれど、今のところネタにさせてもらったことはない。真なる小説の種は、人々が秘して語らない記憶の中にこそ潜んでいる気がする。
長編小説『十の輪をくぐる』は、病を機に意識が朧になった母・万津子がひた隠しにしてきた過去を、58歳の息子・泰介が追う話だ。万津子の呟き「私は……東洋の魔女」は何を意味しているのか。若くして夫を亡くした彼女は、2人の幼子を抱えた身でなぜ寄る辺なき東京へ移り住んだのか。長男の泰介にだけバレーボールを教え込んだのは何のためなのか。泰介と共にそれらの謎を追う読者は、やがて浮かびあがる母親の「子を思う力」の大きさに心を震わせることになる。と同時に、その母のしなやかな精神が確かに子孫たちの中にも受け継がれているのを見て取り、深い安堵の思いに満たされるに違いない。
万津子がくぐり抜けた試練の背景として描かれる昭和30年代の日本も生々しく、丁寧なディテールの積み重ねが、その足跡に点々と落ちる影にもリアルな濃度を与えている。この著者の作品はデビュー当初から注目してきたけれど、本書は間違いなく現時点に於ける最高傑作だと思う。
〈(本文258頁より)東京ではこの秋、アジア初のオリンピックが行われる。だが万津子は、田んぼと川と空しかない、狭い人間関係と農家の古いしきたりに支配されたこの土地で、息子たちとともに、日々を耐えながら生きていくのだ。〉
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source : 文藝春秋 2021年4月号