新たな成長への萌芽は「待つ」ことで育まれる
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▶ほんとうに必要なもの、命にとって大切なものを待つことなど、ほとんどなくなってしまった
▶コロナの時期に自分を見つめることが出来た人だけが、成長する。新しい価値に気づき、それを自己表現として、創造することが出来るのだ
▶自分と向き合わざるを得ない日が必ずやって来る。そのための訓練の時間と思えば苦にならない。スマホで人とつながろうが、簡単に答えを得ようが、自分の中で感じ、考え、見つけ出さなくてはならない時が来る
下重さん
ササゴイの待つ姿
一羽の鳥が岩の上で雨にうたれている。濁流の中を流れてくる魚を見逃すまいと、目をカッと見開いて一点を見つめたまま。
ササゴイだ。中型のサギの一種、その嘴は長く鋭い。前かがみの姿勢のまま、待っている。
私は橋の上から五月雨を傘に受けてササゴイを見つめる。我慢くらべだ。ササゴイは不安定な姿勢を保ちながら動かない。
二十数年前のゴールデンウィークに、誘われて埼玉県の寄居に鳥を見に出かけた。鮎飯が名物の割烹旅館で、料理ができるまで外に出たのだ。
ササゴイのひたすらに待つ姿は私の目に焼きついた。いつやってくるか、来ないかもしれぬ獲物を、待ち続ける。
自然界の生物はこうやって真剣に生きるために闘っているのだ。
私たち人間はそのことを忘れたのではないだろうか。
物は溢れ、手をのばせばすぐそこにある。スマホを開いて注文すれば、たいてい手に入る。待つ必要などほとんど無い。結果が先に待っているのだ。人間が待つのではなく、物が先にある。金を払ってそれを手に入れる。経済成長の循環の中でぬくぬくと、しかし、イライラしながら暮らしている。
ほんとうに必要なもの、命にとって大切なものを待つことなど、ほとんどなくなってしまった。なんと弛緩した怠惰な暮らしに馴れてしまったのか、いや馴らされてしまったのか。
自然界の生物として身につけていたはずの必要な能力すら失ってしまったのだろうか。それを人は繁栄と呼ぶ。対価として失ったものがいかに大きいか、知ろうともしない。
こんな自分に気づいたのは、新型コロナウイルスで不要不急の外出を避けて家に閉じこもっていた昨年のこと。緊急事態宣言といういかめしい名の初めての体験に、びくびくしながらも、楽しみもあった。私にとっては長い間忘れていた待つ楽しみをよみがえらせてくれた時間だったのだ。
ササゴイ
蜘蛛が教えてくれたこと
小学校(国民学校)の2年と3年の2年間、私は待っていた。他にすることが無かった。
敗戦の1945年からさかのぼること2年間、昭和19年と20年、結核という感染症に罹って自宅の一室に隔離療養を余儀なくされた。学校でツベルクリン反応の陽性を告げられ、まだ特効薬もないこととて、栄養をとって安静にしているだけの一見贅沢病。本人は痛くも痒くもなく、微熱があるだけで、その微かな熱にうかされている状態が嫌いではなかった。正式名は肺門淋巴腺炎。医者から熱計をつけるよう命じられ、朝、昼、午後3時、夜と1日4回熱をはかりグラフを描く。
軍人だった父の転勤先の大阪も爆撃が始まり、その間隔が次第に縮まり、前庭に掘った防空壕に盆に載せた薬と共に退避した。ついに都市部は疎開となり、子供たちは学校から集団で学童疎開するようになったが、病気の私は縁故疎開の名の下に、奈良県境の信貴山上の老舗旅館に母と兄とねえやとで避難。私の部屋は、池に面した芝生の中に建った離れの日本間だった。
8畳ほどの広さにベッド代わりのピンポン台にふとんを敷いて、たまに散歩に行くだけで、1日おきに訪れる医者とヤトコニンという静脈注射を待っている日々。同じ年頃の友達は一人もなく、移籍した分校では、土地の男の子に小さな蛇を指にまきつけて追いかけられた。結局、1日だけの登校だった。
私の友達は、隣の部屋に疎開した父の蔵書と、画家志望だった父の宝物だった泰西の名画集。それを一枚ずつめくって飽きることがなかった。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、宮沢賢治……漢字が読めなくとも、少し大人になった気がしていた。
生きているのは、蜘蛛。今でも蜘蛛は好きで、一昨年はスペインはビルバオのグッゲンハイム美術館の池の傍らにある巨大なブロンズ製の蜘蛛を見に行った。
夏の夕立の後、張り終えた網についた水滴に見とれた。さきほどまでベッドのそばを這っていた蜘蛛が、糸を繰り出しながら見事な網を張り身を潜める。
そして待つのだ。いつかかるともわからぬ昆虫などの獲物を。姿は見えない。けれど、網が微かに揺れた瞬間、蜘蛛は姿を現し、次の瞬間に捕えている。その素早さ! 私は驚嘆した。自然に備わった待つ力。生きるために能力を最大限に使い、獲物のかかった時にはもう移動している。
その姿を毎日目にしながら、私は待つことを学んだのだった。
退屈することは、全く無かった。読めもしない文字と文章の切れ目ごとに妄想をたくましくし、私なりの物語を勝手にでっち上げることの楽しさに没頭して、自分だけ大人になった気分。外から聞こえてくる子供達の声の無邪気さを憐れんでいた。
スペイン・ビルバオ
自分に向き合うチャンス
二十数年前のゴールデンウィークに見たササゴイの真剣な目つきと、敗戦時に結核で隔離されていた頃の自分が重なった。
そうだ。私はもともと待つことが得意だった。コロナで自粛と言われなくとも、一人で家の中で過ごすのは、おおいに良しとすべきところだ。そう思うと楽しくなってきた。
安倍首相は犬を抱いてソファで紅茶を飲んで「おうちに居ましょう」と言っていたが、私は何もなくても退屈しない。まして音楽と本さえあれば……。
与えられた自分だけの時間をどう過ごすか、それによって人生は大きく変わる。
毎日雑事に追われて過ごしていたが、外へ出る仕事はほとんどなくなり、原稿を書くのはもともと一人だ。
自分と向き合うための時間はたっぷりある。このところ仕事に追われ、自分と向き合うことを忘れていた。というより、避けて通っていた節もある。80を過ぎてから人生の締め切りをいやでも考えさせられていた。
今から未来へ向かう時間だけを追い求めるおめでたさを誇っていたが、そうもいっていられない。締め切りから逆算せざるを得ないことを何度か思い知らされて、自分を失いかけていた。いいじゃないか、明日死んだとしても、私の思いは未来に向かってある。それがあの世といわれる所でも、私がこの世に生きた証拠は確実に残る。やり残したことや後悔があればこそ、この世とつながっているのだ。
思い出してくれる人や瞬間があれば、私はいつでも生き返る。思い出とは、思いを出すことだ。それを下界に見ながら翔ぶ。新しい世界へ。未知の初体験が待っている。それはある種の希望であり、死は最後のときめきである。
その時へ向かって自分をよく知っておくこと。人は近しいものを最も知らない。顔つき合わせることの多い家族についていかに知らなかったかを思い知らされ、少しでも近づこうと、死んだ父、母、兄に手紙を書いた。答えはない。その結果、わかったのは、私自身の彼等への思いだった。そして私自身がいかに自分に対して無知であったかだ。
それを知るための時間がコロナと共にやって来た。最初こそとまどいもあったが、腰を据えてしまえば、なんと豊かな時間だろう。素通りしていた自分を掘る。そこから様々なものが見えてくる。目をつむって避けていた自分の弱さ、醜さ。
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source : 文藝春秋 2021年6月号