東京五輪と日本人 リーダーなき国の悲劇

池上 彰 ジャーナリスト
保阪 正康 昭和史研究家
ニュース 政治 昭和史
▶昭和の終戦時から「今さらやめられない」を繰り返す
▶エリートのお家芸「主観的願望を客観的事実にすり替える」
▶「危機の宰相」の明暗——日本は再び米英に敗北した
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池上氏✕保阪氏

「このままじゃ、政治に殺される。」

 池上 東京五輪の開会式まで2カ月を切りました。菅義偉首相は「安心・安全な大会は可能」と繰り返していますが、5月以降、メディアが相次いで行った世論調査では、「延期」あるいは「中止」と回答した人が8割を超えるなど、国民の支持は失われています。

 保阪 「安心・安全」に開催するための具体的な手立てが見えてこないんですよ。このまま突き進むのはあまりにも無責任でしょう。

 池上 国民の気分を代弁していると感じたのが、宝島社が5月11日に朝日、読売、日経新聞に掲載した見開き広告です。竹槍を持つ戦時中の少女の写真を背景として、中央に新型コロナウイルスがデザインされていて、「ワクチンもない。クスリもない。タケヤリで戰えというのか。このままじゃ、政治に殺される。」というキャッチコピーが添えられていて、なかなか秀逸でした。

 保阪 あれは広告史上に残る作品じゃないですか。明治以来、「白兵銃剣主義」で育ってきた日本の軍事指導者は、長期戦略なく兵站や補給を軽視し、作戦一辺倒でひたすら目の前の敵を倒すことしか考えませんでした。最後まで小状況にこだわり大状況を見ず、国民の命を軽視して戦争に敗れた。いま、人類とウイルスもまさに戦争状態にあります。コロナに打ち勝って五輪を開催するためには、ウイルスを封じ込めるための確たる戦略と兵站が必要なはずですが、いまだに日本にはそれがない。あの広告は過去と現在を貫く日本の病理をうまく可視化していますね。

宝島社 広告
 
宝島社の新聞広告

日本を蝕む無原則、無思想、無責任

 池上 ここに来て、戦時中の日本に通じる様々な問題点が浮き彫りになっています。実は、私は昨年からひそかに嫌な予感がしていました。「精神論」で五輪延期のスケジュールが決まってしまったからです。昨春、森喜朗さんが「五輪を2年延期したらどうか」と提案すると、安倍晋三さんは「いやいや、1年延期です。オールジャパンの力を結集すれば、すぐにワクチンができる。1年後にはコロナが収まっているはずですから」と答えたそうです。結果としてメッセンジャーRNAという新技術によって異例の早さで完成しましたが、当初は、開発まで10年かかると言われていました。つまり、安倍さんの発言には、科学的根拠が一切なかった。精神論そのものでした。戦時中、精神論に支配された日本がどんな末路を辿ったのか。歴史からまったく学んでいないのです。

 保阪 太平洋戦争の軍事指導者が持っていた病根は、無原則、無思想、無責任の「三無主義」に尽きると考えています。思想も哲学も持たないまま決断を下し、国民に犠牲を強いて、無責任な作戦を強行する。これこそが太平洋戦争以来、日本を蝕む宿痾(しゅくあ)です。この教訓を忘れてはいけません。

なぜ中止を決断できないのか

 池上 五輪中止を巡っては、様々な政治的思惑が渦巻いているように見えます。これはブラックジョークですが、いま開催すれば海外から選手が集まりませんから、おそらく日本は金メダルラッシュになります。菅首相は、国民がワーッと盛り上がったところで、秋の総選挙と総裁選に突入すれば、少なくとも負けることはないと算段しているのではないでしょうか。また、中止にしてしまっては、「とにかく五輪をやるんだ」と言い続けてきた前任者の安倍さんに顔向けできないという思いも、もしかするとあるのかもしれません。

 保阪 ただ、政権支持率の浮上や安倍さんの面子など、国民の命と比べたら、大したことではありませんね。菅首相がなぜ「やめる」と断言できないのか、不思議で仕方がないのです。

 池上 菅首相は、保阪さんがおっしゃった日本の宿痾に取りつかれているのだと思いますよ。五輪は目の前に迫り、新国立競技場や東京アクアティクスセンターの建設など、すでに多額の予算を投じてしまった。「今さらやめられない」という思いがある。東條英機は開戦直前になって、日本の国力ではとても戦争はできないとする報告書が出されたにもかかわらず、「今さらやめられない」と戦争に踏み切りました。同じ失敗をいま繰り返そうとしているのです。

 菅首相肝いりのGoToキャンペーンも同じです。当初の趣旨説明では「コロナが収まったら始めます」としていたのが、感染が拡大している最中にやることになり、多額の予算が計上された。いざ実施される数日前になると、官邸幹部が「今さらやめられない」と漏らしていると報じられました。新聞を読んで、「ああ、またこの言葉か」と情けない気持ちになりましたよ。

 保阪 「今さらやめられない」を支えるのは、「主観的願望を客観的事実にすり替える」という、これまた軍事指導者が持っていた病根のひとつです。「日本は勝つ」という願望を元に作戦を立案したことで、アメリカとの戦力比を見誤り、連戦連敗につながりました。GoToもあれだけ世論が反対に回ったのに、コロナの感染力を見誤って強行したという点では同じでしょう。

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菅首相

風向きをうかがう政治家たち

 池上 日本は開催の判断については、「IOCの責任」と逃げ腰になってきましたね。菅首相は、「すでにIOCが決定している」と、まるで日本にはなんら決定権がないかのような発言をしていますが、そんなことはありません。契約書を見る限り、たしかに日本政府や組織委員会に中止する権利はありませんが、71条に「本契約の締結日には予見できなかった不当な困難が生じた場合」「その状況において合理的な変更を考慮するようにIOCに要求できる」と書いてあります。

 この対談のためにいろいろと調べてきたのですが、参考になるのが1940年の東京五輪です。このときも日中戦争という有事の最中で、軍部から「戦費以外に余計な支出をするな」と圧力を受けながらも、駒沢オリンピック公園や戸田ボート場の整備計画を進めていました。ところが、傀儡国家だった満州国の選手団を出場させようとしたことから、「こんなオリンピックに参加できるか」と世界中から批判の声が上がったのです。

 結局、日本政府は開催を断念しましたが、このときは「中止」ではなく、開催都市である東京市が「返上」する形を取りました。今回も「合理的な変更」を要求することが可能なのです。

 保阪 なるほど。菅首相はおそらくそのことを承知しながら、あえて責任の所在を曖昧にした発言をくり返しているわけですね。1940年当時は近衛文麿内閣でしたが、近衛は返上について何かメッセージを発していたのでしょうか。

 池上 強いメッセージを出した記録は残っていませんね。実はこのとき、最初に「返上すべきだ」と訴えたのは、河野一郎さん(当時、衆院議員)なのです。

 保阪 えっ、そうなんですか。

 池上 河野一郎さんは返上論の口火を切ったこともあり、1964年の東京五輪担当大臣に任命されています。80年経ったいま、孫である河野太郎さんが五輪開催を前にワクチン担当大臣として奔走している姿を見ると、何か因縁めいたものを感じますよね。

 保阪 もしも、太郎さんが中止と言い出せば、お祖父さんの時と同じということですか(笑)。しかし、政治家はみな五輪開催の是非について明言を避けている中で、5月22日の朝日新聞のオピニオン欄で、猪瀬直樹さんが「やるべきだ」と訴えていたのが面白い。

 池上 招致した時の都知事ですから、そう言うしかないでしょうね。

 保阪 このタイミングで現役の政治家ではなく、猪瀬さんが登場したのは、誰かに頼まれたのか、あるいは他に言う人がいないのか、勘ぐってしまいました。

 池上 4月に二階俊博幹事長が、「これ以上無理だということだったら、スパッとやめないといけない」と発言したことが波紋を広げましたね。私は、あれはアドバルーンだったと見ています。あえて中止論をぶち上げることで、世論の反応を探ったのでしょう。批判の声が高まるとすぐさまトーンダウンしました。小池百合子都知事も最近になって、「何がなんでも開催する」とは言わなくなってきたのが気になりますが、機を見るに敏な人ですから、風向きをうかがっているはずです。いま、ハッキリと中止を訴えると、自分の責任が問われるかもしれません。みんな猫の首に鈴をつけるのが嫌なんですよ。

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風向きを読む小池都知事

菅首相と東條英機は「自信がない」

 保阪 それにしても、なにか国家的な危機に見舞われた時、つくづく日本は指導者に恵まれないと思いますね。第二次世界大戦では、イギリスにはチャーチルが、アメリカにはルーズベルトがいましたし、良いか悪いかは別としてスターリンやムッソリーニ、毛沢東や蒋介石など、時代を動かす人材が出てきた。ところが日本は、1930年代に世界を敵に回していく過程で、有能な人材が消えて行ってしまった。結果として器の小さい東條を首相にするしかありませんでした。僭越な言い方かもしれませんが、菅首相もコロナ下で国の舵取りができる器とは思えませんね。

 池上 菅首相と東條には、有事のリーダーとして何か共通する点はあるのでしょうか。

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source : 文藝春秋 2021年7月号

genre : ニュース 政治 昭和史