最近、母と仲がいい。
実は、40年ほど前に実家から独立して以来、母とはあきらかに一定の距離があり続けていた。心理的にも、物理的にもだ。子どもが親から離れるのはごく健康的なことなので、距離があること自体は寿ぐべきことだが、磁石の同じ極が近づくと反発するように、どうやらわたしと母は、ある距離以内に近づくと、自然に反発して思いもよらぬ速さで互いから離れる、といった関係にあったようなのだ。
そのように距離をとらなければだめな間柄とは、つまり「不仲」なのかと思われるむきもあろうが、それもまた違う。昨今の親子関係の中でのさまざまな軋轢を待たずとも、大昔から親子というものはたいがい相性がぴったりというわけにはいかないものだった。その証拠に、古今東西の小説や戯曲の大きなテーマは「父殺し」である。
ギリシャ悲劇「オイディプス王」では、息子はそれと知らず父を殺し母とまじわり、光源氏は父を殺しこそしないが父の恋人とまじわり、リア王は娘の2人に無下にされ、カラマーゾフの兄弟たちとその父との葛藤は激しい。
「父殺し」だけでなく、現代には「母殺し」の小説も多い。前回の芥川賞の候補作5作のうちにも、テーマの中に比喩的「母殺し」を含むものが2作、比喩的「父殺し」が1作あり、つまり半分以上の作品が、親子の葛藤を描いているのである。
殺されるのは母や父ばかりではなく、「子殺し」にいたる作品も多い。ごく最近では山田詠美『つみびと』でのネグレクトの連鎖。「殺す」という極限までゆかずとも、太宰治は「子供より親が大事、と思いたい」と自嘲したし、竹下しづの女は「短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてつちまおか)」と詠んだ。ただし、親殺しではなく子殺しを描く作品は、「子殺しに至るまでの動機」をたんねんに辿ったものが多く、単純な断罪だけではすまない、という重層的な含みを持つ内容のものが多いように思う。その理由をごく単純に言ってしまえば、「親殺し」は一種の通過儀礼であるが、「子殺し」は創作中であっても肯(うべな)うべきではない罪であるため、「親殺し」小説では親殺しの行為自体のひそかな称揚がテーマとなり、「子殺し」小説では子を殺す親の魂と殺された子の魂の両方をいかに救済するかがテーマとなるからだろう。
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source : 文藝春秋 2021年7月号