まるで自分自身を題材としたルポルタージュ
たった数行で、人や風景をあざやかに立ち上がらせる、喚起力のある描写。歯切れのいい文章。最初の章を読み始めてすぐ、ああそうだった、と私は思った。誰もが知るあの美貌と、女優としてのキャリアに惑わされてはいけない。この人は、「ベラルーシの林檎」「砂の界(くに)へ」を書いた、世に稀な文章家なのだ、と。
本書の著者がかつて刊行したこの2作を読んだとき、こんな本があったのか! と衝撃を受けた。舞台はパレスチナ、バルト三国、戦時下のイラン……。エッセイに分類されることの多いこれらの作品だが、実は日本のルポルタージュの名品である。
その岸惠子の自伝である。まさに巻を措く能わずで、一気に読んだ。そして思った。これは、自分自身を題材としたルポルタージュなのだと。昭和一桁生まれの日本人女性が、国境を超え、常識を破り、思索しつつ生きた軌跡が、現代史を背景に展開される。
1945年5月29日の横浜大空襲の日、12歳だった著者は、防空壕に入ることを拒否して、松の木に上る。あの暗い穴の中で死ぬのは嫌だと思ったのだ。B29の爆撃で燃える街、パイロットの顔が見えるほどの機銃掃射。だが彼女は生き残る。大人たちが入れと言った防空壕にいた人たちはほとんどが死んだ。そのとき彼女は「今日で子供をやめよう」と思ったという。
こうした人生の節目が、本書では何度か語られる。
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source : 文藝春秋 2021年8月号