芥川龍之介賞 正賞 時計 副賞 100万円
ブラックボックス
群像8月号 砂川文次
なお、直木三十五賞は、今村翔吾「塞王の楯」(集英社)と米澤穂信「黒牢城」(KADOKAWA)に授賞決定しました。
公益財団法人 日本文学振興会
■芥川賞選考経過
第166回芥川龍之介賞選考委員会は1月19日午後4時から東京・築地の「新喜楽」で開かれました。
小川洋子、奥泉光、川上弘美、島田雅彦、平野啓一郎、堀江敏幸、松浦寿輝、山田詠美、吉田修一の9委員が出席して討議を行い、頭書の通り授賞を決定いたしました。
受賞作以外の候補作は次の4作品でした。
石田夏穂「我が友、スミス」(すばる11月号)
九段理江「Schoolgirl」(文學界12月号)
島口大樹「オン・ザ・プラネット」(群像12月号)
乗代雄介「皆のあらばしり」(新潮10月号)
これらの作品は2021年6月1日から2021年11月末日までの6カ月間に発表された諸作品の中から予選通過したものです。
なお、直木三十五賞の選考経過は「オール讀物」3・4月合併号(2月22日発売)に掲載されます。
◆芥川賞選評〈到着順〉
真正面から 小川洋子
いくら自転車を漕いでも、ただ風景が流れてゆくだけで、本人はサドルの一点に留まったまま、どこにも抜け出せないでいる。脱出するための行動を起こせない自分の弱さから逃れるため、更に自転車を漕ぎ続ける。『ブラックボックス』の主人公サクマが陥っている現実は、どうしようもない息苦しさに満ちている。車輪の回転がようやく止まるのは、刑務所へ送られる事態になった時だ。彼は真の意味で閉じ込められることになる。
砂川さんは、ものを運ぶだけの日常も、恋人との関係も、刑務所での毎日も、隔てなく客観的に描写している。安っぽい感傷が入り込む余地はない。だからこそ、サクマを取り囲む壁の冷ややかさが、生々しく伝わってくる。ラスト、“分からない”という未来に宙吊りにされ、放置される彼のうつろな視線から、目が離せなくなる。
今回、工夫を凝らし、策を練った候補作が目立った中で、最も真正面から文学にぶつかっていった作品が受賞となった。文学的な挑戦は、目新しさの中にあるとは限らない。『ブラックボックス』の受賞によってそれが証明されたのだと思う。
『皆のあらばしり』に漂う人工着色料のような舌ざわりは、乗代さんにしか出せない味わいだろう。知識が異様に豊富で、記憶力が抜群で、胡散臭い人生訓を垂れる謎の男の存在感が、抜群だった。男と高校生は、決してお互いに本性をさらけ出さない。人間の内面を探る、などという方向には目もやらず、謎の古文書を巡るだましだまされのやり取りで、小説を成り立たせている。最後にヘビのおもちゃが飛び出してくる場面など、多少やり過ぎのような気もするが、乗代さんの徹底ぶりはやはり、評価に値する。
『我が友、スミス』を読んで初めて、女性ボディ・ビルの世界の面白さを知った。筋トレをして別の生き物になる、自由に体を鍛えることで自分を好きになれる。主人公が味わう喜びには新鮮さがあった。ただ、肉体と心が一対一で対決する緊張感が、もっとほしかった。その緊張感とユーモアは必ず両立するはずだ。
車で横浜から鳥取へ行くだけの話『オン・ザ・プラネット』を、島口さんはよくここまでの分量の小説に仕上げたと思う。その粘り強さは武器になる。切れ目のない不思議な視点の入れ替わりも、映画の内側と外側の混在も、魅力的に活きていた。おしまいには登場人物たちが境界線を失くし、砂丘のように平らになったかのようだった。
『Schoolgirl』の娘と母は、対立することさえできない異なる座標に立っている。その不気味さが、底なしに深く掘り下げられてゆくさまを読みたかった。
文学的逆襲? 島田雅彦
小説も当然流行や風俗、サブカルチャーの影響を被るので、どの作品にもSNSの書き込みや掲示板のスレッドの文体、閲覧数を稼ぐための問題設定やエンターティメント要素が盛り込まれる。その一方で、巷にはびこる、ウケ狙いの、不正確で、不誠実なコトバに対する文学的逆襲を実行する書き手もいる。
九段理江の『Schoolgirl』は太宰治の『女生徒』のリメイクを偽装しながら、今もなお踏襲され続けている母と娘の対立という古典的なテーマの換骨奪胎を図ろうとしている。「あるある」的な共感によってクリシェ化されてしまう世代間ギャップそのものへの批評が、時に痛烈な皮肉を伴い、時に微笑を誘う。母と娘の対立は、迷信や無知との戦いでもあり、影響の不安をめぐる感情的軋轢でもあるので、父と息子におけるイデオロギー対立のように単純には解決できない。そこにAIなどが登場して、このテーマにまつわる達観を披露したりするのだが、これもユニークな新機軸となっている。母と娘の対立に無関係なおっさん三人がこの力業を強く推したが、一作では判断できないという留保の声が強く、受賞とならなかったのは残念。
受賞作となった砂川文次の『ブラックボックス』だが、雇用環境が劣悪化し、格差が拡大し続けるブラック社会の真っ只中で、不愉快な日常を反復する主人公の肉体感覚がベタなリアリズムで畳みかけられる。日々の労苦が報われることがないというプロレタリアの絶望はやがて突発的な暴力となって噴出する。この作品はメッセンジャーとしての日常を描く前半と刑務所で懲役刑に服す後半から構成される。両者の間には因果や必然性が欠落しているのだが、現在巷で流行る理不尽極まる突発的犯罪の背後に見え隠れするものを確実に捉えている。
ボディビルの筋肉フェチとは別の側面に光を当て、好奇心をそそる『我が友、スミス』だが、トレーニングを通じて「別の生き物」になろうとするヒロインの実存は変わらなかった。冷静な分析に終始する姿勢によって最高のルポルタージュにはなった。
鳥取へ向かう大学生たちの旅路という容れ物に、哲学や映画から得た着想のパッチワークを盛り込んだ青春の自問自答集というべき『オン・ザ・プラネット』だが、作中で展開される友達同士のチャットに魅力はあるものの、思弁をもっと有機的にストーリー展開にからめてほしかった。
『皆のあらばしり』は郷土史の魅力的エピソードをしゃべくり漫才に溶かし込み、その軽妙な会話でストーリーをすすめ、どんでん返しを仕込むというエンターティメントの新しいフォーマットを開発したことは評価するが、自問自答につきものの予定調和感は否めない。
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source : 文藝春秋 2022年3月号