元総理大臣・羽田孜(はたつとむ)は、おおらかな人柄で人望があったが、自民党を飛び出し、保守合同以来はじめて非自民政権を誕生させた。
1994(平成6)年4月、細川護熙首相の辞任をうけて連立与党から首相に指名される。ところが社会党が連立を離脱。同年6月、わずか64日で羽田内閣は総辞職した。この日、自宅に帰った羽田は淡々と過ごし、愚痴ひとつこぼさなかったという。
35(昭和10)年、東京に生まれる。父・武嗣郎は朝日新聞の記者で後に衆議院議員。成城学園高校をへて成城大学を卒業後、父の口利きで小田急バスに入社する。父は「政治家は世襲ではない」と語っていたので、サラリーマンを続けるつもりだった。
ところが、63年に父が脳溢血で倒れると、後援会は羽田に出馬を強く懇願した。しかたなく、69年に旧長野2区から立候補する。このとき田中角栄から、いっしょに呼ばれた小沢一郎とともに、「3万人に会って、3万枚の名刺を配れ」と命じられた。
7万票を超えてトップで初当選を果たし、やがて田中派の若手として注目される。農林政務次官を務め、有力な農水族となって党内で力をつける。急速な農産物自由化にも現状維持にも反対し、「おっとりしているが、シンがある」といわれた。
85年、竹下登が創政会を旗揚げしたとき、小沢と参加し、のち「竹下派の七奉行」の1人と目される。金丸信は「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山(静六)」と評した。88年の竹下改造内閣では農水大臣に就任し「適材適所の人事」と言われる。海部俊樹政権の時代に小選挙区制の導入を唱え、宮沢喜一内閣では大蔵大臣を務めた。
93年、小沢と自民党を集団離脱して新生党を結成し党首に就任。日本新党代表の細川護熙を首班とする政権を成立させ、55年以来続いてきた自民支配に終止符を打つ。ところが細川は行き詰って94年に辞任してしまう。自民党の渡辺美智雄を担ぎ出す案もあったが、結局、羽田が首相に就任することとなった。
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source : 文藝春秋 2017年11月号