武蔵ほど自らの手で多くの人を殺めた男はいない。対抗できるとすれば江戸時代の処刑人の山田浅右衛門ぐらいか。13歳で有馬喜兵衛を倒し、以来、60余の決闘に勝利した。それ以外にも関ヶ原役の九州石垣原の戦いや大坂夏の陣でも活躍した逸話があり、それも加えると奪った命の数は3桁に届くやもしれない。
武蔵の死に対する考えとはいかなるものか。興味深い逸話がある。細川藩2代目藩主の光尚から「いわおの身」の極意を武蔵が尋ねられた。何事にも動じない不動心の極意を見せるために、武蔵は弟子に切腹を命令したのだ。すると弟子は取り乱すことなく粛々と腹を切る用意をした。ちなみに、腹を切る寸前で武蔵は制止し、これが「いわおの身」の覚悟ですと光尚に示したという。
武蔵にとって命とは随分と軽いものだった――と考えるのは早計だ。武蔵の著した『五輪書』に、こんなことが書いてある。
「今の武士たちは、死ぬ覚悟が大事だと思っているようだ。しかし、死ぬ覚悟は武士だけでなく、僧侶や百姓以下にいたるまで、女性であっても持ち得るものだ」
なんと、武士の死の覚悟を大したことはない、と言い切っている。
では、なぜ弟子にあわや切腹という真似をさせたのか。武蔵が死の7日前に書いた『独行道』という21箇条の書にはこんな1文が。
「道においては死をいとわず思う」
剣の探求のためには、死の危険を恐れるな、ということか。死の覚悟は当たり前に固めるべきだが、それを軽々に実行に移したり誇示したりするなというのが武蔵の考えだろう。
実は武蔵の晩年は、空前の殉死ブームであった。先ほどの光尚の父の細川忠利が死んだ時には、19人もの人が殉じた。男だけではない。鍋島藩では、奥方が死んだ時には侍女たちが何人も後を追っている。
その殉死の影響は、武蔵の養子である宮本三木之助にも及んだ。大坂の陣で武蔵が家康従弟の水野勝成への助っ人で参加した縁で、水野家家臣の中川志摩之助の3男を養子に迎えいれたのだ。
三木之助には剣の天稟があった。1番有名な養子は宮本伊織だが、武蔵は彼には剣を教えなかった。しかし、三木之助には剣の奥義をあますところなく伝えたという。
しかし、その三木之助は仕える本多忠刻が早逝した時に殉死している。寛永3年(1626)のことで、三木之助は23歳だった。
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