映画監督の溝口健二(1898〜1956)は、『雨月物語』『山椒大夫』などで国際的評価を確立した。
完全主義者の溝口の姿を見た映画評論家の浜村淳氏が回想する。
ぼくは同志社大学で映画学概論を学んだ。講師は依田義賢先生。1936年に『浪華悲歌(なにわえれじぃ)』『祇園の姉妹(きょうだい)』という史上に残る名作を溝口健二監督と組んで発表された名脚本家である。先生はこう語られた。
「溝口との仕事は骨が折れます。何度脚本を書き直しても『だめです』と言われるんです。最高で200回くらい書き直したことがあります」。「溝口の撮影現場を見学に行きますか」。我々学生は喜んで太秦の大映撮影所へ出かけていった。
撮影中の作品は、近松門左衛門の人形浄瑠璃で有名な「大経師昔暦」を映画化した『近松物語』(1954年公開)である。第一ステージに大経師の店の重厚なセットが組まれ、香川京子がおさん、長谷川一夫が茂兵衛に扮して熱演している。
監督は椅子に座ってにらみつけていた。「カット!」。鋭い声が響く。「だめです、もう一度」。テイク2。「カット! だめです。もう一度」。テイク3、テイク4……長谷川一夫が抗議する。「監督、どこがだめなんですか。言ってくださいよ」
監督が重々しく口を開いた。
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source : 文藝春秋 2023年1月号