「文藝春秋」という縦長の文字が上部に整然と並んだ、妙に厚くて触れると指が切れそうなくらい四隅を鋭く裁ち切られた、田舎の中学生の関心にはかすりもしない雰囲気の雑誌が、行きつけの本屋の月刊誌を扱う面出しの専用棚に、いつも堂々とした顔で収まっていた。町の図書館の新聞雑誌コーナーではいまの私くらいの年齢の男性が低いソファーに腰を下ろして読みふけっているのを何度か見かけたことがあったけれど、とっつきにくい印象が先に立って手にとることもなかった。この雑誌は一九二三年に菊池寛が創刊し、初号から二五年までの巻頭を芥川龍之介の「侏儒の言葉」が飾ったのだと文学史の参考書で教えられても、芥川賞・直木賞の発表媒体であるらしいと聞き知っても、現物の雑誌のたたずまいと近現代文学は、私のなかでうまく接続されなかった。
高校に入学した春先から胃の調子が悪くなり、梅雨の一日、学校を休んで地元で最も大きな総合病院で診察を受けた。予約なしの初診だから待ち時間が長くなることは予想できたはずなのに、文字を追いたいという欲求を体調不良が完全に押さえつけていたようで、私は暇つぶしのための本をなにも持参していなかった。一時間半ほどしても動きがないので、あとどのくらいかかりそうか看護師さんに尋ねると、お昼くらいになるかもしれませんと言う。仕方がないので、胃のあたりを押さえながら別棟にある入院患者向けの売店に行って新聞書籍が置かれた一画を覗いてみると、時代小説の文庫本や週刊誌といっしょに、「文藝春秋」が何冊も、嵩高く平台にのっていた。こういうところに由緒ある雑誌の需要があったのか。不明を恥じて一冊手に取り、頁も開くことなくレジに持っていった。多めの診察代を与えられていたので懐には余裕があったのだ。そのときにはもう、胃の痛みよりもこれを読んでみたいという好奇心のほうがまさっていたのかもしれない。
不思議な感触だった。ぱらぱらめくってみると紙質の異なるグラビアが散っていて、その前後で勝手に頁が開く。カラーもモノクロもあって広告が多い。署名入りの文章が入ったタイアップ記事もある。洋服、日本酒、洋酒、不動産、鉄道、ホテル、金融。ものめずらしくて固い紙の頁をすべて読み、総合誌とはこういうものなのかと素直に感心した。ふだん読んでいるレコードや卓球の専門誌とはわけがちがう。
どんな記事があったのかもう記憶にないのだが、一九七九年三月の毎日杯で落馬し、瀕死の重傷を負った福永洋一に関する文章を読んで、胃ではなく胸を痛めたことはよく覚えている。情けないことに、「巻頭随筆」の四文字を見ても、前年に買った同題の文春文庫がこの欄の寄稿を編んだものであることにさえ、当時は想い到らなかった。
ひと通り読み尽くしたころには、昼近くになっていた。順番はまだまわってこない。雨で気温が下がり、院内は肌寒かった。ズボンの上から足をごしごしさすって温めていると、隣りにいた老人が雑誌をのぞき込みながら、えらいもの読んでるな、どこが悪いと聞いてきたので、症状ではなく論評を求められているのかと勘違いして、悪くはないです、面白いですと答えて相手の目を白黒させてしまったことを恥ずかしく思い出す。
ずっと差し込んでいた痛みはいつのまにか薄れていた。バリウムを飲み、レントゲンを撮る覚悟をして自主的に朝食を抜いてきたこともあって、腹も減ってきている。胃の調子は上向きになったということか。このまま診察になったら先生になんと説明しよう。悩みはじめたとき、大きな声で名前を呼ばれた。
胃は無事に回復した。それが飲み薬のおかげだったのか幕の内弁当のように次々に記事をつまめる「文藝春秋」の効能だったのかは判然としないのだが、院内の売店で平積みにされているのだから、これは医薬部外品として、すべての患者に一定の効き目があると見なされていたのではないだろうか。
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source : 文藝春秋 2023年1月号