枯れ野のスケッチ

オヤジとおふくろ

山本 顕一 立教大学名誉教授
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著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、山本顕一さん(立教大学名誉教授)です。

シベリア抑留で亡くなった父を語る ©iStock

 私の父、山本幡男は、第二次世界大戦終結後にソ連によるシベリア抑留を経験し、日本に帰らぬまま病死しました。父は死の直前に遺書を残しましたが、全ての内容を収容所の仲間たちが手分けして暗記し、後に私たち家族に届けてくださった。その経緯は辺見じゅんさんの『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』に詳しくまとめられ、映画化もされています。

 私は福岡県北九州市の戸畑で、四人きょうだいの長男として生まれました。一歳になる前に父が満鉄へと入社し、一家で満州国大連市へと渡っています。

 幼い頃、私は父が怖くて仕方がなかった。父はせっかちな性格で、いつもイライラしていました。家族で花見に出かける時など、真っ先に玄関へと出ていく。四人の子供に支度させている母を手伝うことなく、「早くしろ、早くしろ」と急かしていたのを覚えています。辺見さんの本や映画に出てくる父は穏やかですが、私が幼年時代を通して知る父は、それとはかけ離れていたのです。

 一九四四年、父は二等兵として召集されました。ロシア語が堪能だったため、ハルビン特務機関に配属され、諜報活動を担います。私は母や祖母に連れられ、父に会うためにハルビンへ何度か通いましたが、四五年六月の面会が最後の交流になりました。終戦後、私たち家族は日本に戻り、父の帰りを待ち続けましたが、ついに再会は叶わなかった。特に、訃報が届いた時の母の悲しみは深く、見たことがないほど泣き叫んでいました。

 数年後、父からの遺書が届けられます。私に宛てては「自分の才能に自惚れてはいけない」と戒めの言葉があり、非常に重い内容でしたが、同時に心を打たれたのはあるスケッチでした。

 父は収容所で文化部員に選ばれ、壁新聞を作るなどしていたのですが、それらが父の死後、ソ連の赤十字社を通し、遺品として渡ってきたのです。遺品を整理していると、父が描いたスケッチが目に留まりました。それは、枯れ野が広がる風景でした。収容所には絵具がないため、植物の実を搾った液体を使って描いていたそうで、スケッチ自体は本当に簡単なものだったのですが、瑞々しい感性が伝わってきた。「あの父にこんな面が……」と驚きをもって眺めました。

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source : 文藝春秋 2023年2月号

genre : ライフ ライフスタイル