本書は2月6日に発売されたが(初刷り3万部)、同16日には4刷り15万部に達している。文字通りのベストセラーで、しかも政治に影響を与えている。
〈安倍晋三元首相の回顧録は守秘義務違反ではないのか――。各国首脳とのやりとりなどが記された「安倍晋三 回顧録」(中央公論新社)の内容をめぐり、野党側は一三日の衆院予算委員会で「政府方針や発表と異なる」と追及。閣僚らはこぞって答弁を避けた。/回顧録は六日に発売された。衆院解散などの政治判断の舞台裏や各国首脳との会談でのやりとりなど内政や外交上の機微に触れる部分も少なくない。首相を含む閣僚、副大臣、政務官は「大臣規範」で「職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない」「国務大臣等の職を退任した後も同様とする」と定められている。立憲民主党の本庄知史氏は委員会で「守秘義務違反にはあたらないか」と質問。松野博一官房長官は「私自身、すべてを読んでいない。政府の立場としてコメントすることは控えたい」と述べるにとどめた。/本庄氏は二〇一八年一二月に主要二〇カ国・地域首脳会議(G20サミット)が開かれたアルゼンチンでの日ロ首脳会談を問題視。回顧録によると、北方領土の「二島返還」で翌年の合意を目指すとプーチン大統領と「一致していた」。当時の外務省発表は「さらに交渉を加速させることを確認した」と書かれているだけだった。/予算委で問われた林芳正外相は「コメントは差し控える」。当時の外相だった河野太郎デジタル相も「所管外だ」と繰り返し、真偽を明らかにしなかった〉(2月13日「朝日新聞デジタル」)
いずれにせよ本書の資料的価値は高い。去年7月8日に安倍晋三元首相が銃撃され、死亡する事件がなければ、本書がわれわれの目に触れるのはずっと先になっていたと思う。本書は2022年1月にはほぼ完成し、刊行される予定だったが、安倍氏からストップがかかりお蔵入りになった経緯がある。ロングインタビューの聞き手となった橋本五郎氏、尾山宏氏は〈安倍派会長として本格的に政界に復帰しようとしていました。内容があまりに機微に触れるところが多いので躊躇されたのでしょう〉と推察する。今後、この回顧録の内容はさまざまな方面から批判され、研究者により検証されることになると思うが、安倍氏が歴史法廷の被告人席に立つ覚悟をもって本書を残したことは間違いない。
本書の内容は多岐にわたるが、本稿では評者が内情をかなり詳しく知っている日露交渉を取り上げたい。まず興味深いのは、安倍氏がロシアのプーチン大統領が力の論理で動く政治家であるという現実を正確にとらえていたことだ。北方領土交渉の文脈で言うと、米国の意向にどこまで日本が抵抗してロシアとの関係改善に踏み込めるかが鍵だ。そのようなプーチン氏の論理を安倍氏は正確に理解していた。
日露交渉で裏チャネルを使う
安倍氏は外務省ルートで北方領土問題の突破口を開くことはできないとの認識を持っていた。そこで2018年11月14日の日露首脳会談の準備に関しては、内閣情報調査室(内調)とSVR(露対外情報庁)を裏チャネルとして用いた。
〈外務省は、従来の4島の帰属問題云々にこだわっていました。ロシア外務省も、非常に日本との交渉に慎重です。本来、外交交渉を担うべきラインが、あまり機能しないのですね。/そこで、プーチンに近い人物を探ったところ、セルゲイ・ナルイシキン対外情報庁(SVR)長官がいたわけです。プーチンは元KGBで、SVRは、KGBの後継機関ですから、プーチンはナルイシキンを信用していました。しかも、ナルイシキンは過去に何度か来日していて、日本のことにも多少知識がある。この分野の専門は、北村滋内閣情報官でしたから、北村さんからナルイシキンを通じて、プーチンに日ソ共同宣言でどうか、という話をしてもらったわけです。プーチンには、しっかり日本側の考えは届いていました〉
実は日本政府がSVRチャネルを用いたのはこれが初めてではない。小渕恵三氏、森喜朗氏が首相をつとめたときも重要事項はSVR経由でエリツィン大統領、プーチン大統領に伝達した。もっとも日本側の窓口は内調ではなく外務省国際情報局(現・国際情報統括官組織)で連絡係は評者がつとめた。
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