人生の岐路において、進路を大きく変えさせられた本がある。『香港世界』(山口文憲著、河出書房新社)だ。
それまで私は「中国少女」だった。人民服を好み、共産主義者を惨殺するギャングと、漢奸(かんかん)(外国の侵略者に通じた売国奴)を暗殺する抗日グループが闊歩した1930年代の上海に憧れ、シルクロードの風景に心奪われる、思想性ゼロの10代だった。中国へ行きたい。そんな思いを募らせていた頃にこの本と出会った。
30年代の上海が輝いていた(ように見えた)のは、帝国主義者と共産主義者、西洋と東洋、植民地としての治外法権など、相反する価値観が入り乱れていたからで、それは80年代の中国には、もはや存在しえない要素だった。その後継者はむしろ、英領香港なのだ、とこの本を通じて知らされた。
香港という手があったか! こうして私は1986年に香港へ留学、中国返還前後の香港に2年弱暮らした。もしあの時、まっすぐ中国へ進んでいたら、その後の人生は大分違っていただろう。この本の責任は重大だ。
卵が先か、ニワトリが先か。私の場合、中国と香港がそれに当たる。中国への関心が高じて香港へ誘われ、香港を知るにつれ、また中国が知りたくなるという、果てしない循環に取り込まれた。特に金銭第一の超過密都市・香港に暮らしていると、無性に中国の大地が恋しくなることがあった。そんな時はバスに飛び乗り、広州へ遊びに行ったものだ。
英領香港は、中国に返還されたが、香港と中国の関係が幸福なものでなくなったのは周知の通りだ。中国が「50年不変」と謳った「一国両制」が形骸化し、日に日に中国式の統治が強まる香港で、2019年の民主化要求運動が頓挫してからは特に、中国を毛嫌いする人が少なくない。私もそれが原因で、香港の友人と深刻なケンカをした。彼らの気持ちは理解できるものの、香港と中国を切り離せない私には、両者の分断は辛い。そんな時に開くのが、中国のノーベル文学賞作家、莫言が、受賞よりはるか前に書いた『白檀の刑』(中央公論新社)である。
タイトルの「白檀の刑」とは、清朝時代に恐れられた、最も苦痛が長引く極刑のこと。舞台は莫言の故郷である山東省の高密県。膠済鉄道の建設を進めるドイツ人を殺したかどで、旅回りの劇団の座長が「白檀の刑」で処刑される。列強による侵略、王朝末期の腐敗、帝国の崩壊、民衆が強いられた苛酷な暮らし……。その一大悲劇が、架空の大衆演劇「猫腔」の形を借り、圧倒的な音と色彩で生々しく迫ってくる。
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source : 文藝春秋 2023年5月号