著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、星野博美さん(ノンフィクション作家)です。
私の父は東京の下町、戸越銀座で町工場を営んでいた。昭和二(一九二七)年に祖父が興した工場の二代目である。五反田で生まれてじきに戸越銀座へ移り、戦時中に五年間埼玉へ疎開した以外は、この地から離れたことがない。
工場は自宅の敷地内にあり、工員さんも風呂と三度の食事をわが家でとった。通勤時間は、勝手口から出て工場のドアを開けるまでの数秒。工員さんたちは定時で仕事を上がったが、常に納期の迫った「社長」はそうはいかない。私たちと一緒に遅い夕食を済ませると、ねずみ色の「ナッパ服」を着たまま工場へ戻り、夜遅くまで機械に向かった。まさに、働く父の背中を見て育った、と言える。
後継者がいないことから、早い段階で事業の縮小を考え始めた父は、私が中学に上がった頃には一人で働いていた。家が職場の父にとって、家族は文字通りの家族であり、同僚でもあった。
ほとんど家に寄りつかない父親だったら、「うざい」「汚い」「話しかけないで」などと拒絶したかもしれない。しかしあいにく、こちらは寝る間も惜しんで働く父の姿を見ている。父親である以上に、労働者なのだった。学校で会う教師や富裕層の子女たちにはことごとく反抗的態度をとった私も、労働者に歯向かうことはできなかった。
労働する父には反抗しなかったが、この地に縛られることには抵抗した。そして家を出て、世界のあちこちへ行く機会の多い仕事を選んだ。
狭い世界で生きてきた父は今年で九十歳になり、今も変わらず戸越銀座の家で暮らしている。一世紀近く同じ場所で暮らす――私には想像もつかない世界だ。しかし最近、再び父と暮らしてみて、思い知らされたことがある。
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source : 文藝春秋 2023年6月号