あの日、アーリントン墓地は深い霧に覆われていた。ケネディの墓前にひとり花を手向けたまま立ち去ろうとしない白髪の女性の姿があった。聞けば、かつて仕えたひとの命日には毎年欠かさず訪れるという。若き大統領が凶弾に斃れて歳月が流れても、その磁力はいまだに人々を惹きつけてやまないのだろう。
ジョン・F・ケネディの生涯は、あまりに劇的な死ゆえに幾多の伝説に彩られてきた。そのどこまでが事実で、どこからが伝説なのか。とりわけ、アイルランド移民の血を引くカトリック教徒がいかにしてホワイトハウスへの険しい崖を攀じ登ったのか、その真相は歴史の谷底に埋もれたままだった。『JFK』は、ケネディ家に残る手紙や日記類を丹念に読み解き、「アメリカの世紀」を率いたひとの足跡を明らかにした。
大統領への道に立ちはだかる最大の障壁は父ジョーだった。米国屈指の大富豪は駐英大使の椅子を手に入れ、戦雲急を告げるロンドンに赴いた。彼の地ではナチス・ドイツの躍進に幻惑され、英国は敗れると譲らず、米国の参戦に抗って宥和主義者であり続けた。「びびりのジョー」という世評は、公職を窺うケネディ家の息子たちには大きな災厄となった。ハーヴァード大学の学生だったジョンは、開戦前夜の欧州政局を父と共に目の当たりにして、『英国はなぜ眠ったか』と題して筆を執った。
「この本はジャック・ケネディが政治的には父親から解放されたことを示すものとなった」
やがてジョンはボストンから下院議員となり、上院議員として敗れはしたが副大統領の指名争いにも挑んでいる。確かに父の無尽蔵の財力は政界進出の助けになったが、カネの力だけでは選挙戦は勝ち抜けない。共和党の現職に挑んだ上院選では「母親のように彼を世話したい、または彼と結婚したい」と詰めかける女性支持者が勝利の原動力になった。内省的な人柄は人々を魅了し、JFKを更なる高みに押し上げていった。
公職を目指す者は、選挙民に自らの政見を訴えかけ支持の輪を広げていく。19世紀の米国こそ、草の根デモクラシーの揺籃の地となった。『何人にも悪意を抱かず』は、貧しい少年時代を送り、満足な学校教育も受けていないリンカンが幾つもの選挙を勝ち抜くことで、大統領の座に一歩一歩近づく政治のドラマを活写している。不屈のリーダーは合衆国を分裂の危機から救いつつ、奴隷制の撤廃に祖国を導いていった。
この国の代議制は存続の危機に瀕していないか――JFK伝とリンカン伝を著わしたふたりの歴史家はそんな危機意識を分かち合っているように見える。テレビやインターネット・メディアは、公職を目指す者と有権者に介在して、いまの選挙キャンペーンから人肌の温もりを奪い去っている。二つの伝記の作者は、かつての選挙戦の人間味溢れる光景を克明に描くことでそう訴えているように思えてならない。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2023年6月号