日本人の本離れが深刻と言われて久しくなるが、村上春樹氏に関してはあてはまらない。村上氏の新作が出るたびに大きな話題になる。
〈作家、村上春樹さんの6年ぶりとなる書き下ろし長編「街とその不確かな壁」(新潮社)が(4月)13日、発売された。東京都新宿区の紀伊国屋書店新宿本店では、日付が変わる午前0時に販売を開始した。/待ち望んだファンらはカウントダウンと拍手で発売の瞬間を迎えた。店のシャッターが開くと、円卓に積み上げられた新刊の山が登場。事前予約を済ませた約60人が列をつくり、待望の新作を次々と手に取った。/一番乗りしたのは東京都内の玩具メーカー勤務、片山裕士さん(54)。「誰よりも早く読みたくて。玉手箱を開けるような感じです」と期待をにじませた。学生時代からのファンだという飛田陽海(はるみ)さん(40)は、神奈川県から駆けつけた。「コロナ禍のなかで村上さんが紡いだメッセージが、この書籍からわかればいいな」。漫画喫茶で朝まで読むつもりだという〉(4月13日「朝日新聞」夕刊)
村上氏の小説の凄さは、日本にとどまらず世界文学としての地位を確立していることだ。ロシアやイスラエルの友人と話すときも村上氏の作品が共通の話題になる。そのとき気付くのは、ユダヤ教やキリスト教の文化圏の読者にとって村上作品が日本人読者とは異なる文脈でとらえられていることだ。それは目には見えないが、確実に存在する「何か」を村上氏が、類比(アナロジー)と隠喩(メタファー)を駆使して、見事に表現しているからだ。
また、過去の世界文学の遺産を消化して、作品に取り入れている。『街とその不確かな壁』において重要なのは影を持たない人である。これについてはアーデルベルト・フォン・シャミッソー(1781~1838年)の『影をなくした男(ペーター・シュレミールの不思議な物語)』(1814年)を想起する。フランス出身であるがドイツ語で作品を書いたシャミッソーにとって影とは、民族の隠喩だった。民族的帰属意識を持たない人間は、影をなくした人間のように不安定になるということだ。『街とその不確かな壁』での影は、民族の隠喩ではないが、それなくしては人間の生命力が本質において損なわれる「何か」なのである。
「不確かな壁」に囲まれた街にある図書館には、書籍はなく、サイズも色合いもひとつひとつ異なる卵のような形をした古い夢が無数に並んでいる。そこにいるときの主人公(ぼく)の仕事は〈夢読み〉だ。このような夢の扱いは、アルバニアの小説家イスマイル・カダレ(1936年生まれ)の『夢宮殿』(1981年)を想起させる。もっとも夢宮殿は、帝国民の夢の内容を収集、分析し、国家に対して有害な夢を把握し、スルタン(皇帝)に報告するインテリジェンス機関であったが、壁の中にある図書館で〈夢読み〉に期待されているのは、権力と結び付いた機能ではない。古い夢を〈夢読み〉が追体験することが鎮魂のような効果をもたらし、壁の中の秩序を維持する機能だ。いずれにせよ夢には破壊的な力が備わっていて、それを適切に処理することが社会秩序を維持するために不可欠であるという認識は、『街とその不確かな壁』と『夢宮殿』に共通している。村上氏の小説に出てくる人物間のやりとりは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の登場人物たちのようなちぐはぐさに特徴がある。村上氏、シャミッソー、カダレ、ドストエフスキーは活躍した時期も場所も、用いる言語も文化的背景も異なっている。しかし、それぞれの人が自分の足場を深く掘り下げ、その結果、世界文学という共通の地下水脈に到達している。
カルヴァンの予定説の世界
『街とその不確かな壁』には、謎解きの要素がある。読者からこの作品を読む楽しみを奪わないためには、いわゆる「ネタバレ」にならないようにする配慮が書評においても重要になる。主人公(ぼく)は、17歳の公立高校3年生のときエッセイ・コンクールの表彰式で私立高校2年生のきみと知り合う。2人は付き合い始め、デートや文通できみが話した高い壁に囲まれた街の話が深く心に刻み込まれる。しかし、主人公が3年生の12月のときに届いた手紙を最後に、きみの消息は途絶えてしまう。ぼくはその後、誰かを本気で愛することができなくなり、独身のまま中年になる。大学卒業後は本が好きなので、書籍や雑誌の取り次ぎ会社に就職するが、退職する。
〈これ以上この仕事を続けていくわけにはいかない。考え抜いた末に、そう心を決める。今ここにある生活のレールからいったん心身を外さなくてはならない――たとえそれに代わる新しいレールが見当たらなかったにしてもだ〉
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source : 文藝春秋 2023年6月号