日本文学の研究者たちによると、鷗外のドイツ留学は成功したのに漱石の英国留学は失敗に終った、ということになっているらしい。そして専門家の言だと素直に信ずる傾向の強い一般の文学愛好者の間でも、この見解で定着しているようである。
ちなみに二人とも、当時の言い方だと官費留学生。留学にかかる全費用は国が持つのだから私費留学生よりは恵まれていたが、それなりの不自由はあった。鷗外は本心では訪れたかったイタリアには行けなかったし、漱石も、フランス行きの希望を却下されている。
鷗外が日本を後にしたのは明治一七(一八八四)年。二十二歳だったその彼に与えられた任務は、陸軍の衛生制度を主とした衛生学全般を学ぶこと。だがそれを、ドイツのどこでどのように学ぶかは、当人に選択権があったらしい。二十二歳は時を無駄にしなかった。ドイツに入るやただちにライプチッヒに行き、そこの大学で一年間学ぶ。次の年はドレスデンに移って軍医学を。翌年はミュンヘンに移動して衛生学。その次の年はベルリンにもどって、北里柴三郎とともにコッホの衛生試験所に通う。この年は赤十字の会議で演説したりで、勉学以外のことでも忙しかったよう。そしてこの後に待っていたのが、プロシア近衛連隊での実地学習。二十二歳から二十六歳までの歳月を丸ごと使いきったのが、鷗外の留学生活であった。その間にドイツ女と恋愛までしていたようだから、神経衰弱になる暇などあるわけがない。
鷗外よりは五年遅く生れた漱石だが、彼の海外体験は明治三三(一九〇〇)年、三十三歳になってから始まる。熊本の五高で英語を教えていた漱石に文部省が与えた任務は、イギリスに行って英文学を研究すること。すでに結婚していた漱石は妻子を妻の実家に預け、九月、ドイツの船で横浜から発つ。十月、ロンドンに到着。当初はオックスフォード大学で研究するつもりでいたが費用がかかりすぎるのであきらめ、十一月から翌年の十月まで、シェークスピア研究で知られたクレイグ教授の私宅に通う生活をつづけたよう。その間、ロンドンから動いていない。
あの時代のロンドン。しかも季節は冬をはさんでの一年間。もともとからして天候に恵まれないのがイギリスだが、ロンドンは大英帝国の首都である。ゆえに大英帝国になった要因の一つである産業革命による公害、つまり排煙のひどさはモロに味わったろう。英国の気の利いたエリートならば、さっさとイタリアやギリシアに旅していた時代でもあった。なのに漱石は文部省の指令をまともに受けたのかロンドンに居残って勉学にはげみ、「文学論」を執筆したりしていたのだ。そんなこと初めての留学中にやることですかね、と私などは思ってしまうのだが。
しかし、クレイグ教授の家に通ったり「文学論」の執筆を試みたりしているうちに、三十代前半の漱石は考え始めたのではないかと思う。
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source : 文藝春秋 2023年9月号