前号で述べた理由で、日本に帰るのも簡単にはいかなくなった、と思うしかない今日この頃。
食べ物はあきらめる。うさぎやのどら焼きも銀座ウエストのシュークリームも木村屋のあんぱんも、そして私が死ぬほど好きな石巻の練り物も、郷愁の味のすべてはあきらめる。これらは賞味期限を無視できないからで、ローマに来るなら持ってきて、なんて頼めないからだ。頼まれた人は、なるべく出発の日近くに買い求め、ローマに着いたらすぐに渡さなくては、と思うだろう。私自身は賞味期限などは気にしないが、この種の気遣いまでさせるのでは申しわけない。とはいえ祖国日本とはつながっていたい。と考えた末に行き着いたのが、北斎であった。
それで帰国中に、墨田区にあるという「北斎美術館」に行ったのである。展示はすべて見た。なのに、いまいち心に迫ってこない。なぜだろう、と考えた。
展示の内容は完璧。北斎の業績を研究したい人には役立つこと必至。ところが私ときたら研究にはまったく関心がなく、鑑賞したいだけ。それも日常的に、北斎と接していたいだけなのだ。展示の方針がなるべく制作時期に近いもの、つまり世に言う「ホンモノ」にあるせいか、ほとんどの作品が今では色褪(あ)せた状態で展示されている。当然だ。葛飾北斎は西暦一七六〇年に生れ一八四九年に死んだ人。代表作とされる『富嶽三十六景』、実際は好評ゆえにさらに十景がつけ加えられたので「四十六景」になるが、それが完成したのは一八二九年。今からならば二百年近くも昔の話になる。
こう考えた末に浮んできたのが、芸術作品の「修理・修復」と「復刻・複製」のちがいであった。この二つは、似ているようだが似ていない。ローマに住んでいると、この双方を始終眼にする日常になる。
復旧ないし修理・修復とは、辞書によれば、古くなったり破損したりして原形を留めていないものを、つくろって元のようになおす作業。一方、復刻・複製となると、過去の作品を原形に模して再び生き返らせる作業、になる。
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source : 文藝春秋 2023年8月号