帰国中に感じたこと

日本人へ 第237回

塩野 七生 作家・在イタリア
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 平和が人類にとって最高の目標でありつづけているのは、平和だけが庶民にとって、身の安全を保障してくれる唯一の道だからである。この平和が、プーチンによって破られた。それに刺激されてか、世界中で腕力が幅を利かせ始めたよう。となると、一私人にやれることは、今の自分でも可能なこと、だけになる。というわけで、歌舞伎座で始まったばかりの団十郎襲名披露公演を観に行ったのだった。

 海老蔵改め新・団十郎への期待はあまりなかった。一昔前だが京都の南座での玉三郎との共演で、全盛期の玉三郎にいいようにあしらわれている彼を見て、これでは絶望的だと思っていたのだ。だがこの人にも、あれ以来過ぎた歳月がある。それに、隔世遺伝という可能性もある。何を隠そう、娘時代の私はインテリたちが軽蔑する海老蔵ファンで、歌舞伎座には夜昼と通っていたのである。

団十郎襲名披露の祝幕 ©時事通信社

 ところが、かの海老さまの直孫への対面を果す前に、私を娘時代に引き戻した人がいた。幕が開くや劇場内にあふれ出た、三味線弾きたちによる連弾である。いや、その中でも主席格らしい、小柄な老三味線弾きによる音色の冴え。それを聴きながら、日本に帰ってきたことを心の底から感じたのだった。

 四人の三味線弾きによる連弾の後半は老三味線弾きの独奏に移ってそれで終るのだが、終えた直後に見せたこの人の表情がまた良かった。弾ききったという感じで、ほんのわずかな所作ではあったが、ヤッタ!という表情で終えたのだから。私の嫌いなことの一つに「枯淡」がある。年老いたら誰でも枯淡の域に達しなければならないのか、と思っているので。

 とはいえ歌舞伎座に行ったのは、新・団十郎を観るためである。夜昼ともに観ての感想を一言で言えば、やはり隔世遺伝はあった、につきる。「美」に支えられての「華(はな)」ならば、充分に受け継いでいたのだから。

 主役には、「華のあること」が不可欠。批評家あたりからは評判の良い芸達者タイプは、ワキにまかせておけばよい。主役に求められる最高の資質は「華のあること」。これは演劇人のみでなく音楽家にも作家にも当てはまる資質ではないだろうか。

 現在の団十郎は、肉体的には絶頂期にあると見た。「最大の敵は自分自身」という一事さえ忘れなければ、あと五年は持つ。その後に来る五年も、年齢に応じた少しばかりの脱皮をくり返していくだけで持つだろう。ということは、この団十郎を柱にすえての歌舞伎の隆盛も、十年はつづくことさえも可能、ということになるのだが。

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source : 文藝春秋 2023年6月号

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