何とかと煙は

古風堂々 第53回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ ヘルス

 父は雨の日を除き毎日、家から善福寺公園まで行き、池を一周して帰るという生活をしていた。約四キロになる。小説のストーリーなどを考えて歩いている時に、不意に犬などに吠えられると思考は途切れるし身体にもよくない、ということで飼い犬のいない道を調べ、そのルートだけを毎日歩いた。毎日四キロは父にとって朝飯前だった。小学校と旧制中学校の計十一年間、父は、上諏訪にある学校まで毎日三キロの山道を往復していた。

 歩きに歩いたのに、六十七歳で心筋梗塞で急逝してしまった。三十六歳だった私は、ウォーキングなど健康長寿に役立たないと思ったが、よく考えると長生きを妨げた三つの理由に気付いた。一つ目は父親と叔父がともに胃ガンで亡くなったためそればかりを警戒し心臓には無頓着だったこと、二つ目は毎週一回、編集者と銀座のバーに行き夜遅くまで飲んでいたこと、三つ目は、小説について考えながら歩いたためウォーキングの健康効果が半減したことだった。

 そこで私は、数年に一度は医者に心臓を診てもらい、コレステロール値などに普段から注意を払った。飲酒を一切断ち女性一筋とした。歩く時は何も考えず速足で歩くことにした。そのうえ四キロでは足りない恐れありと、毎日六、七キロを歩き、駅の階段はもちろん大学では六階の研究室まで必ず階段を登った。今も毎日五キロは歩いている。おかげで年配の女性鍼灸師に「いい身体ですね」と言って脚を撫でられた。

 ただし私の脚は平地専門なのが玉に瑕である。毎月山仲間と登山する女房が旅行に出ると必ず私を高い所へ誘うのだ。ここ一年間だけでも、昨年十一月には京都の知恩院裏の将軍塚に登った。四回目だ。桓武天皇が和気清麻呂に伴われこの山上に来て、京都盆地を見下ろしながらここを都にすると決めたという場所である。二百メートルほどの高さだからマンションで言えば六十階ほどだ。山登りで鍛えた女房は一気に登ろうとする。息の切れた私の歩みが遅くなると逆に歩を速めたりする(ような気がする)。恥を承知で「少し休もう」と二十メートルほど先の女房に声をかけると、「もう疲れたの」とやさしく言って休んでくれるが、顔は「まったく、もう」だ。

 今年の二月には奥三河にある鳳来寺の一四二五段の石段に誘われた。二百段登った所で私は、このまま女房と上まで行ったら命がもたないと判断し、恥を覚悟で麓に戻り車で上がった。翌三月には淀川沿いの背割堤へ桜を見に行ったが、そばの石清水八幡宮に誘われ、四百段ほどの石段を登った。七月には、父の『八甲田山死の彷徨』の舞台である八甲田山に誘われロープウェーで登った。太宰治や中学生の頃から愛し続けている歌手の奈良光枝さんが仰ぎ見て育った津軽富士、岩木山を心ゆくまで見られると期待した。ところが山頂は霧の中で、山頂駅から周遊コースを歩くはめになった。

 外国ではもっと徹底的である。五年前に、私達のお気に入りの映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の舞台となったシチリア島のチェファルーを訪れた時は暑い中、二百数十メートルの山上にある神殿まで歩かされた。途中で「休もう」と言ったら、女房は「では上まで行って戻って来るからそこの木蔭で休んでいて」と言い行ってしまった。チェファルー湾の絶景を見下ろしながらそのまま待っていようかとも思ったが、それでは日本中世界中に「ダラシナイ」と喧伝される。頑張って登り始めたら途中で降りてくる女房に会った。そこから私と一緒に再び登ったのだから余程山が好きなのだろう。ひどかったのは四年前のスイスだった。久しぶりに父の墓碑のあるクライネ・シャイデックに行こうとケーブル、ロープウェーを乗り継ぎ海抜二三四二メートルのメンリッヒェンに出た。ここからユングフラウ、メンヒ、アイガーなど四千メートル級の名峰を目前に、アルペンローゼやツリガネ草など色とりどりの高山植物やのんびり草を食む牛を観賞しつつ、標高二千メートルほどのクライネ・シャイデックまで一時間半で歩いた。ほとんど平坦でこれほど心地よいトレッキングコースはこの世にあるまいと思われるほどだった。父の墓碑から遥か遠くに母とよく訪れたグリンデルバルトの村が望まれた。登山鉄道に乗らず歩くことにした。下りとはいえ標高差が千メートルもあったのに気付かなかった。四時間もかかりヘトヘトになって辿り着いたが、女房は満足気だった。この日の歩数計は二十キロ、三万五千歩だった。

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source : 文藝春秋 2023年10月号

genre : ライフ ヘルス