2月号の目玉である「駐中国大使、かく戦えり」は、昨年12月まで大使を務めていた垂(たるみ)秀夫さんの40年に渡る対中外交の回顧録です。聞き手は北海道大学大学院教授の城山英巳さんに務めていただいています。
退任直後の回顧録の発表は、城山氏の尽力があってのことですが、垂氏の存在が貴重なのは昭和60年の外務省入省以来、香港、台湾での勤務も含め、ほぼ一貫して中国を担当してきた外務省きっての中国通の証言であることです。世に中国論は数あれど、日中外交の最前線で戦い続けた外交官の体験は実に多彩で、驚くべきエピソードが次から次へと展開します。
このインタビュー取材に陪席して、私が最も印象に残ったのは、習近平時代における「国家安全部」(諜報機関)の重要性の高まりでした。垂氏は次のように語っています。
〈国家安全部の力は強まるばかりです。一昨年10月、警察や司法、情報機関を統括する共産党中央政法委員会のトップに、直前まで国家安全部長を務めた陳文清氏が就任しました。これまでは諜報機関である国家安全部が表に出てくることはありませんでしたが、昨年7月には、ウィーチャット(微信)上に公式アカウントまで開設。外国人の監視や通報に協力を求めました。(略)
外交部(日本の外務省にあたる)はもともと権限の強い役所ではありませんでしたので、国家安全部との力の差は歴然としています。国家安全部が力を持つようになったのは、国家の安全を最重視するようになったからであり、当然の帰結と言えるでしょう。昔は公安部(日本の警察庁にあたる)の方が力はあったのですが、いまは国家安全部です〉
毛沢東は戦争の混乱を収め、新しい国家を建設しました。その後を継いだ鄧小平は文化大革命を終わらせ、経済成長を実現しました。彼らに肩を並べようとする習近平は「国家の安全」をトッププライオリティ(最優先課題)に据えた――そう垂氏が語ったところで、あの国の統治者は「国民との向き合い方」を180度変えたのかもしれないと気づかされました。
毛沢東の国家建設も、鄧小平の経済成長も、中国共産党の統治の正統性に寄与するものですが、国民の福利にもつながるものです。
しかし習近平が唱える「国家の安全」とは、具体的にいえば、デモや反乱を未然に防ぐため国民の監視を強化することに他なりません。習近平時代になって11年がたち、監視体制は強まるばかりです。反スパイ法は2014年に施行され、外国人がある日突然逮捕されるようになり、同年には新疆ウイグル再教育収容所が設置され、民族浄化を批判する声が世界中に巻き起こりました。雨傘運動を封印した香港国家安全維持法も2020年に成立しています。
ソ連の崩壊と中国の資本主義の導入によって一時は絶滅したと思われた共産主義は、いまも中国共産党には重宝され、中南海のど真ん中で生き延びています。「国家の安全」をトッププライオリティに掲げるところに、「国民の福利など二の次、大事なのは共産党による一党支配、独裁体制を盤石にすることだ」という本音がうかがえます。垂氏はズバリこう指摘しています。
〈今でも多くの人は、中国共産党は経済成長を第一に考えているのだろうと勘違いしています。つまり、「鄧小平時代の中国」の幻影を見ているのです。(略)これは各国の外交官にもあまり理解されていません〉
トランプ政権の大統領副補佐官だったマシュー・ポッティンジャー氏が本誌への寄稿(「習近平の狂気」2023年4月号)の中で、習近平は正真正銘のマルクス主義者であることを指摘していました。対中強硬策への転換を献策した1人であるポッティンジャー氏の論考を併せて読んでいただくと、垂氏の回顧録は、いっそう面白く読むことができます(さらにもう一本、中西輝政「習近平はヒトラーよりスターリンだ」2021年9月号もおすすめです)。
今号には、日本共産党を批判する対談も掲載しています(松竹伸幸×佐藤優「志位委員長よ、なぜ私が除名なのか」)。党本部の政策委員会メンバーであった松竹氏が明かす志位和夫委員長の姿には、共産党らしい独裁者の特徴を見て取ることができます。日本にも共産主義は生き残っているのです。
(編集長・鈴木康介)
source : 文藝春秋 電子版オリジナル