怒りはつねにそばにある
もし、伊藤詩織さんが声を上げなかったら。もし、ジャニー喜多川氏に性被害を受けた人々が声を上げなかったら――仮定するだけで背筋が凍る。彼らの声によって日本の社会は揺らぎ、意識や行動の変化を迫られてきたが、相変わらず公に性差別発言は横行しているし、例えば松本人志関連の件について、なぜか大手メディアは沈黙したままだ。しかし、声を上げる行為が持つ途轍もない意味の深さを、力の大きさを、すでに私たちは学んだと思いたい。
著者は1968年生まれ、長年に亘って音楽業界のメインストリームを歩いてきた音楽プロデューサー。社会問題についてほとんど語ってこなかったというが、エンターテインメントの世界を守るためには政治や社会と向き合うことを避けられない、という視座を得る。本書は、自身の声を上げることによって社会の現実との軋轢を生きる、なまなましい発言と実践の記録でもある。
いきなり著者がジャニーズ問題の渦中に引き込まれたのは、昨年7月1日。所属する事務所から一方的に契約解除された件について報告する著者のツイートに、世間は騒いだ。山下達郎との紆余曲折もふくむ一部始終は「スマイルカンパニー契約解除全真相」ほか本書にくわしいが、一貫しているのは、ジャニーズ問題、つまり性被害を人権問題として捉える姿勢だ。当事者として社会の歪みを捉え、ともに考えようという提言でもある。古巣の音楽業界から反感を買おうが、ここまで自身を詳らかにしながら率直な発言を続ける人物は見当たらない。
軽妙な文章だが、切れば血の出る言葉だと感じるのは、同時代と著者との数々の接合点について熱く語られているからでもあるだろう。早稲田大学で起こったハラスメントの裁判沙汰。週刊朝日の休刊。韓国の女性DJが直面した、音楽フェスでの一件。感銘を受けた小説やノンフィクション作品。『渇水』『PLAN75』ほか、新作映画の数々。足を運んだ美術展。アマゾンプライム配信の恋愛リアリティショー。帝国劇場で上演されたミュージカル。そして、敬愛する音楽プロデューサーの死……忖度なし、遠慮なし、唯々諾々と服従するのはごめんだ、と態度表明しながら、言葉の配慮は行き届いている。
日常の理不尽には黙りたくはない、と何度も繰り返す。
「怒りはつねにそばにある。何に? 社会や政治や日常の理不尽すべてに。ぼくは怒りを燃料に変えることでここまで歩を進めてきた自覚がある。その火はときに消えそうに見えても結局はしぶとく燻(くすぶ)りつづけ、燃え尽きてしまうことはないのだ」
言葉の背後にある感傷の感情にも、刺激される。止まない歌声が、しきりに語りかけてくる。「メロウ」と「怒り」は違う顔をしてはいない。
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