与謝野晶子(1878〜1942)は、日本浪漫主義を代表する歌人。短歌以外にも婦人問題、教育問題など、幅広い分野で活躍した。孫の與謝野文子氏がその姿を綴る。
大正元(1912)年という年は日本人にとっては当然ながら一つの大きな節目だった。後にヨーロッパの国民も、世界大戦前夜であったことに気づかされることになる。そのときに祖父母の見たフランスはまだ平和志向が強く、生きる喜びを肯定して、暮らしの中から自然に溢れでた優しさ、礼儀の優雅な心得が旅人にも体感できたのだろう。「本当に幸運だった、もう少し遅かったら」と、私はしばしば思う。
彫刻家オーギュスト・ロダンを訪問したことはよく知られているけれど、私の驚きは、マラルメの高弟、象徴主義詩人アンリ・ド・レニエに面会したことや、キュビスムの芽生えも見て、長い19世紀からいよいよ20世紀という時に立ち会うことができたことより、芸術の都の退廃した街の実態から目をそむけないで意見を稿にまとめ、「レザンナール」誌の取材に応えたことだ。
旅した国では、女性参政権の問題で意識が進んでいたのは、イギリスだった。折にふれて、「終戦後まで生きていれば、おばあちゃまも投票できたのに」と思ういっぽう、少しも慰めにはならないのだが、ノーベル賞を2度受賞したキュリー夫人も、あの哲学者シモーヌ・ヴェイユもとうとう参政権を行使することはなかったことが頭をよぎる。
帰国してから、大正と昭和を合せて30年ほど生きた祖母は脳溢血に倒れてからも、なお筆を動かし続けている。その生きた姿を知るのは、王朝の香り漂う命名をしてもらった長姉綏子(やすこ)である。幼稚園の頃まで、祖母の膝元の荻窪の鬱蒼とした庭とモダンな家屋で過ごした日々をあまり言葉にはしない。「戦後生まれ(アプレ)」には通じまいと思っているふしがあるので、その慎みを尊んでいる。昭和の時代は長い。前半後半は歴然と分かれている。
私自身にとって印象深いのは晩年の母親を追想して、父秀(しげる)が語っていたあるエピソードである。
「当時(昭和初期)、無機や有機の話題が出ていて、もっと詳しく知りたい、と。それで、兄さん(医学者になっていた伯父光)にいちど説明をしてもらった」「結局同じなんだけどね。有機や無機。でもママ(晶子)は説明を聞いて、自分としての結論を出した」。「同じなんだけど」とさりげなく強調していた父は、どんな物質でも、原子まで分解されてしまえば、区別がないと言いたかったのだろうし、どうも晶子は晶子で、有機体のもつ特有の性質に魅了されたらしい。
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