折口信夫 まれびと蘇る

山折 哲雄 宗教学者
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民俗学者、国文学者、歌人、様々な顔を持つ折口信夫(1887〜1953)が追い求めた「古代」とは? 宗教学者の山折哲雄氏が迫る。

 折口信夫(釈迢空)は太古の昔、万葉の森をさ迷い、魂の幻夢を食って生きていた。彼はこれまで本居宣長のように「万葉集」や「源氏物語」を研究する学者、斎藤茂吉のような歌人、柳田国男のような民俗学者、小林秀雄のような文学者といわれてきたけれども、そのいずれの類型にもおさまらない、名状しがたい「ヒト」だった。それがこの人物を誤解にみちびく奇妙なワナだった。

折口信夫

 彼にとってこの国の古代人にはそもそも感謝すべきカミなどは存在しなかった。その無限の孤独のなかから光明の輝きだすこともありえなかった。そしてまさにそこにこそ、文学の発生する源があった。詩歌の魂がかがり火のように燃えあがる闇の世界が口を開ける。

 だがそこへ、仏教という「東洋精神」が闖入してきた。日本列島はたちまちその濃厚な色に染まり、孤独にたいする感謝、寂寥にたいする光明、悲痛にたいして歓喜という付加価値をつけ、そのほんらい対立するものを一つづきの美的な心境と化してしまった。仏教こそが万葉人の詩歌の魂を奪い去った。哲学こそが歌を亡ぼしたのだといい、芭蕉こそそのまぎれもない元凶の一人だったと難じたのだった。

 折口信夫のいう「古代」における唯一の主人公はといえば、それはもちろん「まれびと」だった。異界から訪れる異人の相貌を、かれはそのように表現していた。そして、その「まれびと」のまわりには、カミもホトケも存在しない。「まれびと」は、神でも仏でもなく、ただ遍歴しつづける存在だった。それはまさに「呪うべき寂寥」を食って生きるオニのような「ヒト」以外の何者でもなかった。そのヒトの発する呪言が、やがて輪郭のある音声になり、文学の言葉になり、詩の言葉になった。

 折口信夫・釈迢空といえば、小説『死者の書』という大作で知られる。王朝時代、生死を分ける生々しい物語をタテ糸に、それははじまる。一つは春彼岸、奈良・二上山の麓で藤原南家の姫が阿弥陀経千部の書写を終えつつあった。山の端に黄金美麗の円輪が姿をあらわす季節が近づいていた。他方、その双峯の地下では岩窟の水したたるなかを一人の死者が蘇りつつあった。古代の貴公子、大津皇子(作中では滋賀津彦)のむくろである。皇子は天武天皇の第三皇子で、天皇の死後若くして政争に敗れ自死させられた。岩窟のなかでは「した した した」という不気味な水のしたたりとともにむくろが起きあがり、死に絶えたはずの骨や肉、そして神経や血流がすこしずつ蘇りはじめる。

 岩窟の外では、皇子の姉による魂呼ばいの祈りがはじまっていた。その声にさそわれるように南家の姫は写経の場から抜けだし山中に消えていく。神隠しにあったのである。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

genre : ライフ 昭和史 ライフスタイル 教育