南方熊楠 昭和天皇と直接対話

安藤 礼二 文芸評論家
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希代の博物学者・南方熊楠(1867〜1941)は、英米に渡ってほぼ独学で植物学・菌類学・民俗学を研究。著書『熊楠』でその生命哲学を論じた安藤礼二氏が振り返る。

 南方熊楠は、慶応3(1867)年に生まれ、昭和16(1941)年にこの世を去った。夏目漱石と同年の生まれであり、満年齢がちょうど明治と同じになる。つまり、熊楠の青春は近代国家日本の青春であり、熊楠の成熟は近代国家日本の成熟であった。大学予備門で同窓であった漱石がイギリスに留学し、世界という視点から文学を再考し、そこで培われた知識を糧として小説を書くことによって近代日本文学の基礎を築いたとするならば、熊楠も同様に、世界という視点から人文諸科学を再考し、独自の視点、独自の文章の実践から新たな学の基礎を築いていたのだが、その生前、熊楠の新たな学の全貌は誰にも分からなかった。

南方熊楠 ©文藝春秋

 大学予備門を経て東京の帝国大学に進学することができた漱石とは対照的に、熊楠は大学予備門を落第し、そこを中退してしまう。自然を愛し、図書館を愛した熊楠は、その折衷であり、知識を受動的に詰め込まれる学校とは、終生折り合いが悪かった。日本に見切りをつけ、まずはアメリカに、そしてそこからイギリスに渡り、10年以上を海外で過ごした。当時としては例外的な海外生活においても、日本への帰国の後も、熊楠は大学をはじめとする研究機関に所属することはなかった。また圧倒的な知識量によってさまざまな人々を驚嘆させたが、しかし自らにとって重要だと思った主題については、特定の相手を選んで膨大な書簡のやり取りを続けることで、その思索を深めていった。

 宗教学については、後に高野山の管長ともなる真言宗の僧侶であった土宜法龍と、民俗学については、後にその民俗学という新たな学問の体系をまとめ上げる柳田國男と、男色を中心に据えた広義のセクソロジーについては、江戸川乱歩の親友として知られる岩田準一と、いずれも膨大な書簡のやり取りが残されており、それらが没後、一斉に活字となったのである。生涯を通して在野であり続けたこと、主要な思想の展開を特定の相手への書簡として続けたことが、熊楠の再評価を著しく遅れさせた。さらにその上、熊楠が取り組んだ、真言密教の根本に据えられた曼荼羅を対象とした宗教学、祝祭における心身の変容を主題とした民俗学、肉体的な関係以上に精神的な関係を重視した男色学の間に統一を見出すこともまた難しかった。

 それでは、在野を生き抜いた大知識人という評価だけで熊楠の営為をまとめてしまってもよいのであろうか。おそらく、それは違う。宗教学、民俗学、男色学を一つに総合するような対象を、熊楠は生涯を通して観察し続けていたからである。世界のあらゆる森のなかを生きるごく小さな生命体、動物としての生態と植物としての生態を交互に繰り返す粘菌である。森の奥深くで、粘菌はアメーバのようにその姿を変えながら移動を続け、栄養物を捕食する。そのとき粘菌はただ一つの細胞でできた動物である。やがてその動きが止まり、自らのなかから無数の胞子を形成し、膜で包み込み、その一つ一つを色鮮やかな菌類(きのこ)のように屹立させはじめる。しばらくすると子実体は破れ、胞子を遠く広く散布し、あらたな生のサイクルがはじまる。

安藤礼二氏 ©文藝春秋

 粘菌は一なる動物と多なる植物の生態を繰り返している。そこでは男性と女性、生と死という区別もまたなくなる。粘菌は、生命の、意識の、宇宙のはじまりを示してくれていた。そうした粘菌の探究こそが、熊楠の宗教学、民俗学、男色学を一つに結び合せるものだった。熊楠は粘菌の謎を解き明かすために、当時最先端の生物学、心理学、宗教学の書物を諸外国語を学習した上で読み進めていった。進化ではなく退化(根源にもどること)こそが生命に新たな変化の可能性をひらく。原初の生命が持つ多様な可能性はまったく消滅することなく、なによりも心の奥底、顕在的な意識ではなく潜在意識の奥底に秘められている。心は粘菌のような構造を持っていたのだ。それらの書物を熊楠より後に読み込んだ者たち、アンリ・ベルクソンやジークムント・フロイトから現代哲学がはじまり、ワシリー・カンディンスキーやアンドレ・ブルトンから現代芸術がはじまっている。粘菌の研究を通して熊楠は、やはり粘菌の生態に深い関心を抱いていた昭和天皇と直接対話を交わしてもいた。

 南方熊楠は昭和を代表する知識人であり、文字通り、世界とダイレクトに結ばれ合った表現者でもあった。熊楠の可能性はいまだ尽きておらず、未来にひらかれている。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

genre : ライフ 皇室 昭和史 ライフスタイル 教育