著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、福岡伸一さん(生物学者)です。
小学生の頃、夏休みの自由研究は決まって蝶の観察記録だった。芥子粒ほどの卵から生まれた糸くずのような幼虫はせっせと葉っぱを食べながら成長する。あるとき幼虫は蛹に変身する。蛹の内部で幼虫はドロドロに溶けてしまう。ところがまもなく、そこから美しい蝶が再生されてくる。こんなに繊細で劇的な変化(へんげ)があろうか。まぎれもなく私の原点、センス・オブ・ワンダーの瞬間だった。
最初は単純な絵日記だったが、年々、手法も進化し、写真撮影や、食べた葉っぱの量の測定、各段階の日数測定、季節変化などを記録していった。部屋には幼虫がついた葉っぱや木の枝の花瓶が並び、床には丸い糞がころがっていた。母は、汚いとか臭いとか捨てなさいとは一切言わなかった。
私は、幼虫が食べる葉っぱを集めてくるため、通学路のどの家の生け垣にどの植物があるか把握していた。アゲハチョウはミカンやカラタチ、サンショウなど柑橘系の植物しか食べない。ある日のこと、軒先のミカンの枝を折ろうとしていたら、その家の人に見つかった。何してるの! 一目散に逃げ帰ったが、家にはお腹を空かせた子どもたちがいっぱい待っている。困り果てて母に相談した。すると母はすぐに私を連れてその家に行き、事情を説明してくれた。次の日から私は公認でミカンの葉を採取できるようになった。
その後、私は京都の大学に入り、その後も米国に留学したりして実家からはすっかり縁遠くなった。40代の半ば、東京の大学に職を得た頃、70歳を迎えていた母は、息が切れる、疲れやすくなった、と言って病院を受診した。診断名は膵臓がん。すでに転移していた。余命宣告どおりの半年後、母は息を引き取った。私は膵臓の細胞を研究していたにも関わらず、どうすることもできなかった。
死後、母の遺品を整理していたら短歌の創作ノートがたくさん出てきた。趣味で作って愛読誌「婦人之友」や新聞の歌壇などに投稿していたようだ。その中にこんな短歌があった。
ボストンにも葉裏きらめく風立つや研究一途の吾子のはるけき
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source : 文藝春秋 2023年12月号