長谷川一夫 顔を斬られても

林 与一 俳優
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長谷川一夫(1908〜1984)は若くしてその美貌で人気を博し、生涯“スター中のスター”であり続けた。同世代の片岡千恵蔵たち、後輩の勝新太郎らの追随を許さなかった輝きの秘密はどこに? 愛弟子の俳優・林与一氏が語る。

 義理の大叔父でもある長谷川一夫は、子どものころから伏見の芝居小屋に出入りしていたのですが、ある日、大衆演劇で代役を務めたことから、役者の道を歩むことになりました。旅芸人にしておくには惜しいという周囲の声に推されて初代中村鴈治郎の元へ行ったのですが、鴈治郎は弟子を取らないので、私の祖父・林長三郎の弟子になり長丸を名乗ります。長丸は舞台に座っているだけで周囲がざわつくほどの美貌。これは逸材、というわけで長三郎の弟分にし、林長二郎と名乗らせた。関西歌舞伎のホープに台頭し、松竹社長・白井松次郎の鶴の一声で松竹下加茂撮影所に入所。これが昭和2(1927)年です。

長谷川一夫 ©文藝春秋

 義賊、女形役者、その母と三役をこなした『雪之丞変化』(1935年)で人気は絶頂に達します。昔の劇場は正面が一般席で左が女性、右が男性と座席が分けられていた。で、画面の雪之丞が流し目をくれる方向が女性席側になるよう、女形出身の衣笠貞之助監督が狙ったんです。この演出が当たり日本中の女性客を虜にした。そんなドル箱スターを手放せない会社は鴈治郎の娘と縁付かせる。ところが東宝へ電撃移籍。結果、昭和12(1937)年、撮影所で日本を騒然とさせた“顔斬り事件”が起きてしまう。その筋の幹部が脅しで「可愛がってやれ」と口走り、それを手下が「痛めつけろ」と誤解したようです。大叔父本人に聞きましたが、斬られた瞬間、顔へ手をやると歯に当たったんだから凄まじい。あと1センチ切れていたら再起不能だったはずです。

 役者の命の顔を斬られた以上、仕事は出来ないと弱気になった大叔父は転職しようと考えた。やるなら助監督に脚本家、踊りの師匠か衣装、果ては床山だなと。後年、それを聞いた私は「なんで全部業界の仕事なんですか。他に選びようもあるでしょう」と呆れちゃいました。芸一途の面目躍如でしょうね(笑)。事件で学んだのは「困窮してる時に人間がわかる」ということ。ライバルは事件を好機と捉えて見舞いにも来ない。その代わりスタッフさんや大部屋俳優は毎日見舞いに来てくれた。だから「裏方さんを大事にしろ。彼らがいてこそスターが輝く」と、よく語っていました。

 事件後、名を長谷川一夫に改め、『藤十郎の恋』(38年)でカムバックします。お客の反応が心配だった大叔父は顔を隠して封切り館に出かけていったそうです。場内は満杯、映画が始まり自分のアップになったところで「ワーッ」と歓声。この時は嗚咽が止まらなかったそうです。その後は東宝から新東宝、大映、テレビに舞台と活躍の場が変わっても大スターの座を守り続けました。

 長谷川一夫が、どうしてスターであり続けられたのか? よく私に「人から求められるものを演じるのが大事」と語っていました。笠を被って顔を隠し、なかなか顔を見せないとか、殺陣をキメた所でピタッと止まるような独自の間(これを「映画のストップモーションの手法だ」と申してました)を取るなどの様々な技を持っていました。全ては大向うを喜ばすためです。大衆演劇を研究し、チラリと腕や脚を着物から覗かせる色っぽい挙措を自家薬籠中のものにしていました。常に観客本位だったことは、演出家として東宝歌舞伎や宝塚の『ベルサイユのばら』などで腕を振るった際に批評家から「俗悪だ」とコキおろされながらも、ファンの支持を得て最終的には大成功を収めたことでも自明でしょう。

 自分の容色の衰えを克服する術も心得ていました。曰く、世阿弥の教えにキャリアの花の時期を過ぎた芸というものは“葉とぞなれりける”のが理想である、と。脇役を演じるには、主役を食うな、ということです。この人は見えない所で古典芸能も勉強してるんだ! と舌を巻きました。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

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