英文学研究の傍ら小説を書き、さらに随筆の名手としても名を馳せた小沼丹(1918〜1996)。大学時代に「小沼ゼミ」で学んだ翻訳家・青山南氏がその文章の味わいを綴る。
飄々としてとぼけている、というのが小沼丹の文章の魅力なのだな、と『懐中時計』や『椋鳥日記』や『埴輪の馬』を久しぶりに読んで、あらためておもった。身のまわりで起きたことを思い出しながら淡々と書いていくのを得意としたが、その淡々さには独特なところがあって、無理矢理思い出すことはしないで「詳しいことは忘れてしまった」とさらりと書いてしまう。
![](https://bunshun.ismcdn.jp/mwimgs/1/b/1600wm/img_1b1470484afbe6ec6c0c8a463a952368276904.jpg)
「確か新潟の方へ旅行した帰りに寄ったのだと思う。湖で泳いだりボオトを漕いだりしたが、詳しいことは忘れてしまった。それでも一里半の夜道を歩いて、二、三度柏原の町迄酒を飲みに行ったのを憶えている。」
「夕焼空」の一節だが、こういう書き方がすこぶる得意で、というか、味になっていて、「確か」「忘れた」「憶えている」は小沼丹を読みはじめるとしょっちゅうあちこちで見かけることになる言葉だ。肝心なことを忘れてしまうのもよくあり、しかも、そのことをなんとも思わない。大事なことだった、というところまでは「憶えている」のだが、詳しいことは「忘れてしまった」と言ってしまう。じつに、飄々としているのだ。
こんなふうなのがつぎつぎあらわれると、それはおのずとユーモアになる。そこはかとなくただようユーモアとなる。小沼丹はユーモア作家でもあったと言ってかまわないが、そのユーモアはおぼつかない記憶のなかを無理せずに泳いでいく、というか、ふわふわと浮遊していくところから生まれてくる、なかなかにユニークな上品なものだ。
もうひとつ、独特なユーモアが小沼丹にはある。カタカナの表記がなんともへんちくりんなのだ。これも、読みはじめるとあちこちで見かけることになる。さっき引いた一節にもちらりとあらわれているが、「オオトバイ」「スモオクド・サアモン」「ホオム・スイイト・ホオム」「プラットフォオム」「ジェイン・オオスティン」「コムパクト」「ビュウロウ」「ホオム・バア」「コオト」「マザア・グウス」「ロオスト・ビイフ」「デパアト」「テエプ」「オックスフォオド・サアカス」「チャアチ」……とつぎつぎあらわれる。お酒がお好きだったから「ビイル」はほんとにしょっちゅう顔を出す。いわゆる音引き(「ー」)がお嫌いだったんだな、と最初は好意的に納得するが、こうも連発されると、楽しんでたんだ、と認識はすぐにあらたまる。
外来語をできるだけ原音に忠実に表記しようという配慮から生まれたものなんかではないことも「ビイル」を見れば一目瞭然だろう。厳密にやるなら「ビア」なのだから。楽しんでいたのは明らかで、結果的にユーモア(ユウモア?)の気配が濃くただようことになった。
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source : 文藝春秋 2024年8月号