昭和を代表する作家にして、劇的な最期を遂げた三島由紀夫(1925〜1970)。親交のあった画家の横尾忠則氏は、三島から度々礼節の大切さを説かれたという。
三島さんの作品に初めて出会ったのは、結婚して間もなくのこと。妻が机の上に「金閣寺」を置いていた。読書の習慣がなかった僕にはこの本は強迫的に見え、彼女の内面を見た思いでゾッとしました。小説は難解で皆目でしたが、三島由紀夫という人物に興味を持つようになりました。
実際に会ったのは、僕が小さな画廊で初めて個展を開いた昭和40(1965)年。絶対に来ないと思いながらも案内状を送ってみたら、本当に来てくれたので驚きました。足より細いズボンにボートシューズ。ピッタリとしたポロシャツから胸毛をのぞかせて、腕には注射の絆創膏がわざとらしく貼ってある。三島さんの筋骨隆々な腕と、絆創膏――健康的な肉体と、病的な演出のアンバランスが強調されていました。
三島さんは、グラマーな女性と海軍旗を描いた僕の絵を見るなり「アメ公の女と日本の海軍旗か!」と、大きな声で言って呵々大笑しました。何か言わなければと思って、「小説のファンです」と嘘をつくと、「つまらないことを言うやつだな」と言いたげな目でこちらを睨むように見た。言うんじゃなかったと後悔しましたが、来ていただいたお礼に作品を差し上げると、「改築後の書斎に飾るから立ち会ってほしい」と自宅に招かれたのです。
後日、お宅に伺うと、その日は作家の澁澤龍彥さんと森茉莉さんもいらしていた。三島さんは僕たちをバルコニーに誘って、「あの大山と峰の間に空飛ぶ円盤が現れた」と言うんです。澁澤さんは双眼鏡を覗きながら「どこですか!」「あそこだ!」などと、少年のようにはしゃいでいましたが、お茶を持ってきた奥様は「あなた、また嘘をついて」と。すると三島さんは拗ねてしまったのか、パッタリと「空飛ぶ円盤」の話を止めてしまいました。三島さんは度々「芸術の母胎はインファンティリズム(幼稚性)だ」と語っていましたが、まさに三島さん自身がインファンティリズムを纏った方でした。その後、亡くなるまでの約5年間交流が続きましたが、三島さんのインファンティリズムを感じる機会はたくさんありました。
銀座のドイツ料理店に行った時は、三島さんは人目につかない奥の席ではなく入口に一番近い席を予約していた。ところが他のお客さんはまさか三島由紀夫がこんな席にいるとは思わないから、誰も気がつかない。するとおもむろに席を立って、レジ横の赤電話からどこかの出版社に電話をかけました。そして物凄く大きな声で「もしもし、三島由紀夫ですけれども」と言うんです。お客さんたちはびっくり。電話はどうでもいい内容だったので、ただ視線を集めたかったのでしょうね。大層、満足気な顔をしていました。
そんな三島さんですが、礼節にはとても厳しい人でした。待ち合わせに遅刻すると、ひどく怒られる。「君の作品は無礼だ。でも芸術作品は無礼でいい。けれど、日常生活では礼儀礼節を大事にしなさい」と、口酸っぱく言われました。そして「縦糸が創造、横糸が礼節。この2本の糸が交わるところに霊性が宿る。この霊性こそが一番大切なんだ」と。この言葉を僕は三島さんの遺言だと思って今も肝に銘じています。三島さんは、この世界は霊性よりも知性ばかりを重視しているとも嘆いていました。
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