北里と鷗外の信念と誤謬

海堂 尊 医師・作家
ライフ 政治 医療 歴史

 北里柴三郎が新千円札の顔になることを歓迎したい。

 北里は明治時代の衛生行政を司り、感染症対策に全力を注いだ人物である。感染症との戦いは終わりがない。常に新しい病原体が出現するからだ。新型コロナウイルスの出現で、人々はそのことを思い知らされている。

 北里はコッホが指揮するベルリンの研究所に留学し、破傷風菌の純粋培養に成功して、血清学の基礎となる発見をした。それがノーベル生理学・医学賞受賞に値するといえる業績だったことは、今日では広く知られている。

北里柴三郎 ©時事通信社

 ところが結核菌を発見した師コッホは、結核の治療で、治療効果のないツベルクリンに固執し道筋を誤った。北里は師に忠実で、日本での初期の結核治療を間違える。これは医学の進歩が至らなかった時代、仕方のないことだった。

 ドイツから帰国した北里は研究者から医政家となった。医学と違い、政治は不明瞭で正解がはっきりしないが、医療行政を国家の土台に据えようと一意専心で邁進した。貴族院議員になったのも日本医師会を創設したのも、その目標のためだ。

 根っこには幼い弟妹をコレラで亡くしたことに対する悔恨があった。初心を忘れなかった人物が、私たちが日常最もよく手にする紙幣の千円札の顔になれば衛生学の重要さを常に意識することになる。

 片や森鷗外が軍医総監として陸軍の医療部門のトップになったことは知られているが、彼が衛生学の研究を主としていたことはあまり知られていない。鷗外は脚気への対応を間違え、結果的に莫大な数の兵士を死に至らしめてしまう。だがこれを鷗外ひとりの罪にするという近年の風潮は、あまりにも酷である。それは陸軍という機構がもたらした人災なのだから。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

genre : ライフ 政治 医療 歴史