将棋と哲学

糸谷 哲郎 将棋棋士
エンタメ スポーツ 読書

 タイトルをご覧になった読者の皆様の期待を裏切ることとなるかもしれないが、本稿では将棋を指す際の心構えや、将棋から得られる人生のより善い生き方を説くことはない。

 世の中では「人生哲学」や「勝負哲学」、将棋の世界では「米長哲学」等々、大上段に振りかぶってなんらかの信念を説く、というようなスタイルが好まれているように見える(実際に読み物として面白いし、それはそれで有用だろう)。けれど、実際の哲学はその場にある「もの」や「こと」を誠実に考察して行く営みだと私は考えている。

 そういった意味では、将棋と哲学の思考のプロセスには似ているところがある。

 普段、棋士が対局を行う場合、まず「直感」によって局面を見れば次の手が浮かび上がってくる。これは非常に速い思考が張り巡らされているというよりは、局面を見るだけでふわっと第一候補手が浮かび上がってくるのである。時には第二、第三候補の手も盤面を見るうちに勝手に思い浮かんでくる。

 そんな馬鹿なと言う向きもあろうが、例えばいつも通っているアーケードや地下街のことをお考え頂きたい。あなたの頭の中には既に地図が入っているから、その中のどれかの店に(例えばランチのために)行きたくなったとしても、わざわざ頭に思い浮かべずとも移動可能だろう。棋士は将棋においては(他のことに応用可能かは置いておいて)非常に熟練しているため、いつもの定食屋に向かうのと同じようにして局面を進めていくことが可能なのである。

 ハイデガーの『存在と時間』を読まれた方なら、ハンマーで釘を打つ話を思い出されるかもしれない。釘を打つことに熟練した人は、ハンマーを意識せずとも自らの体の一部であるかのように振るうことが出来る。そして、上手くいっていればそのままハンマーは仕事の終わりまで体の一部として扱われるが、何らかの不都合なことが起きた際などには、一旦その状態が解除され、ハンマーはその行為の一部としてではなく、ハンマーそのものとして意識されるのだ。

20世紀最大の哲学書と称されるハイデガーの『存在と時間』

 将棋においては、熟練の棋士でも不都合なことが起こらない局はそうそうない。古来より同じ棋譜は無いと言われる将棋では、これまでの経験とは違った局面がほぼ必ず出てくるものだ。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

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