緒方貞子とカンドウ神父

三吉野 滋樹 フランス文学研究者

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 冷戦終結後の1990年代、旧ユーゴスラビアでの民族間による紛争は、現在も続く戦争や虐殺の解決の糸口を探るときに重要な示唆を与えてくれる。紛争の際、国連難民高等弁務官だった緒方貞子は、危機にさらされ移動を強いられた国内避難民を、国外へ脱出する難民のような国際的支援対象者ではないにも関わらず、法を超えて救援した。

2000年3月、ユーゴスラビアを訪問する緒方貞子国連難民高等弁務官 Ⓒ時事通信社

 私はジュネーヴに長く滞在し、この国際都市で生きた人々について書いてきた。緒方が逝去した際には追悼記事を書くために、彼女の側近だった国連職員にインタビューしたことがある。もっとも印象的だったのは、ある紛争のときに緒方が深く動揺したことだった。難民の情報が突然、ジュネーヴの本部へ届かなくなってしまったのだ。すると緒方は恐ろしいほど声を荒げ、「彼らはどこに行ってしまったというの? 一体どこに!」と取り乱したという。普段は温厚な緒方のあまりの変わりように「あのような姿を見たのは、後にも先にもあの一度きりでした」と取材した職員は語った。

 国際政治学者としての知見をもって国連で手腕を振るった緒方だが、意外にも、ある哲学に関心を寄せていた。回顧録には、聖心女子大学在学中のこととして「記憶に残っている授業は、フランス出身のソーヴール・カンドウ神父の哲学の授業です。(中略)哲学という学問の深遠に感動し、哲学的思考に関心を持つようになりました」(『聞き書 緒方貞子回顧録』岩波現代文庫)と書いてある。

 ソーヴール・カンドウというフランス人神父は、青年期に哲学と神学の博士号を取得し、1925年に来日した。カトリックの伝道につとめたが、第二次大戦中は帰仏して従軍、前線で重傷を負ったものの、戦後すぐ再来日した。

 日本を第二の故郷というほど日本文化を深く理解し、卓越した日本語で多くの人と交流した。当時は盛んに講演会を開き、ラジオにもたびたび出演するほど有名で、仏文学者の辰野隆(ゆたか)や小説家の上林暁といった知識人に影響を与えた。司馬遼太郎も『街道をゆく』で生家を訪れている。

 聖心女子大学では1948年から55年まで「近代思想批判」というテーマで講義を行った。「人格の多面体的存在と愛の根元」と題した授業では、ひとの多面性について語っている。人格は社会の中で会社や学校、家庭といった場面によってさまざまな顔をもつ。多面的であることにこそその人らしさが宿っているのだから、ひとつの面にとらわれるのではなく、いろいろな面を認め、その人が誰とも異なる人であること、ひいてはかけがえのない存在であると気づくことが重要だと述べた。人間は得てして相手の一面にとらわれ、憎しみや愛を抱きがちだが、自分たちを超えるより良い存在、たとえば全知全能の神の愛を意識することで、他の人格を尊重し、共に生きることが可能になると説いたのだ。

 彼は技術至上社会で個人が搾取される時代だからこそ、個々人の人格の尊厳を強く意識しなくてはとも語った。世界という共同体では誰もが人格の尊厳を守るべきというカトリック由来の思想である。

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source : 文藝春秋 2024年11月号

genre : ライフ 国際 ライフスタイル 教育